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西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

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西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  4    4 平原のキリシタン墓碑

平原郷山口原の小高い丘に、平原郷相川家の祖、相川勘解由左衛門尉義武の墓碑がある。勘解由左衛門は「相川氏伝記」によると、豊臣時代、朝鮮に出陣し、傷ついて大村喜前に助けられ、形上に住んだ。
二代目藤左衛門の時、平原に移住して田地を開拓し、20石の知行を得た。四代目の孫甚平が、形上村の旧住地に先祖の墓があることを知り、代々祀ってきたが明治30年(1897)ころ、現在の場所に移した。

墓碑は高さ55cm、幅47cm、厚さ22cmの温石の自然石である。墓碑面中央に花十字、その上に「INRI」と刻まれている。これは「Ⅰesus Nazarenus Rex Iudaeorum =ユダヤの王ナザレのキリスト」の略で、この文字を刻んだ墓碑は日本でははじめて発見され、キリシタン史研究上貴重なものである。
また、墓碑の背後に高さ約2m、幅1m、厚さ15cmの結晶片岩の墓碑が立てられているが、正面から見て前面は削られ、背面には慶長十八年(1613)七月一日と刻まれている。

この墓碑は、表面を削ったのは勘解由左衛門の名を隠すためで、昭和56年(1981)の町教育委員会『西彼町の史跡』にも、形上から平原に移すときに「甲駿之相川勘解由左衛門尉…」の刻字を削りとったといわれるとあり、昭和6年(1931)『郷土調査』では、この石は墓碑の敷石になっていて、名が刻んであるとしており、最近の研究では「石棺の蓋」(蓋石付石棺型キリシタン墓碑)と推論する説も有力で、そのサイズ、形状からも説得力がある。
二代目籐左衛門の墓は、平原墓地にあるが、小倉造りの墓祀の石扉内側に花十字紋様が刻まれている。きびしい弾圧の時代に発見を免れて残ることができたきわめて希な例である。昭和47年(1972)8月に長崎県の文化財に指定された。

写真  5〜  8    5 小干浦の殉教地

亀浦郷小干浦、西村公園(注 西村真珠内の庭園)の岬に殉教碑が建つ。この地生まれの四五郎トマスとその子与介ドミンゴの遺骨が台座に納められている。昭和40年(1965)、長崎市葉山町で、加藤十久雄、結城了悟両氏によって発掘された銅版に刻まれたスペイン文字の解読によって、日本キリシタン史上希有の発見がなされた。

銅版(A)「この箱の中に至福なる殉教者、故四五郎左衛門トマス七二歳と、その子与介ドミンゴ三七歳の二人の死体がある。(この方々は)一六二四年(寛永元年)七月十七日、大村領の村、小干の浦で棄教するのを拒んだので頭(首)を切られたのである。No12
この箱は日本に於ける聖ドミニコ会のものである」
これが日本で発見された唯一の殉教者の遺骨となる。銅版は現在長崎二十六聖人記念館に展示され、この地に殉教碑が建てられた。

写真  9〜 12    6 大串金山跡

大串金山は寛永4年(1627)から、藩直営、民間開発を含めて、約40年の間断続的に採掘された。大串金山というのは、現在の当町域で掘られた金鉱山の総称である。町内でほぼ3地域に分けられる。
喰場郷中ノ島地区、鳥加地区(金山谷、こうもり谷、平島、涌上り海辺)、網代地区が主な金坑跡である。この内、中ノ島川尻、鳥加地区にそれぞれ間歩が現存し、とくに涌上り海辺は大型の坑口が口を開けている。網代の八大龍王社叢には数ヵ所の間歩があったが、現在は塞がれてしまっている。その他にも、小間歩が散在したことが地名(例、白似田の字金山)などからも推測される。

大串金山の金銀産出量や大村藩の収入について、全体を知ることはできないが、寛永4年(1627)の掘り始めから同7年の中断までの4年間に、金8貫匁(30k)、銀70貫(260k)が江戸城西ノ丸の官庫に納められている。また、万治元年(1658)の最盛期には、年間で金4.5貫(約17k)の産出を記録している。その後寛文、宝永年間にも採掘されているが、採算がとれず、江戸幕府への上納もできないまま事業を停止した。

(注 現地写真は鳥加郷涌上りの金山跡。長崎オランダ村ファームから入る。中央右電柱奥の崖上に1箇所、右手道を海辺の人家まで行くと畑庭の崖に3箇所坑口跡が残っていた。)

写真 13〜 16    7 伊ノ浦台場跡

伊ノ浦台場(砲台)は、西海橋の西彼町側橋脚から約100m大村湾寄りの海岸に、高さ5m位の石垣が築かれている。これが幕末期に大村藩が築いた砲台、第一台場跡である。
台山公(大村藩12代藩主大村純凞)勤王録によれば「元治元年(1864)大村湾の迫口伊ノ浦の岸頭に三箇所の新塁を築き、それぞれ一八封度(口径13cm)並びに二四封度(同15cm)の大砲を備えつけてその土地の砲士をして主管せしめたり」とある。
○台場建設の背景(略)

写真  17        8 長島と真円真珠

古くから大村湾は天然真珠を産し、大村藩でも「貝玉奉行」を置いて管理した。明治18年(1885)、県令によって母貝を保護し、良質の真珠が生産されるようになり、養殖の研究が進んだ。
明治41年(1908)、西川藤吉、渡辺理一は共同で、長島に長島真珠養殖場を設立して研究開発を重ね、翌42年に「真円真珠第一号」を完成させ、大正3年には市場に出すことに成功した。現在も遺構の一部が残っている。

西彼町の主な史跡 (1)  西海市西彼町

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西彼町の主な史跡 (1)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  3    1 石鍋製作跡

西彼杵半島の山中では、古くから平家の落人が隠れ住み、石で作った鍋や釜を使っていたと言われてきた。今日では、各地で石鍋やその製作跡が発見されているが、中世史の研究によって、西彼杵半島は全国でも珍しい一大生産地であったことがわかり、石鍋の製造法や用途などが解明された。
石鍋研究の歴史は、八重津輝勝、内山芳郎による大瀬戸町春山山頂の石鍋製作跡の調査から始まった。西彼杵半島に分布する「西彼杵変成岩」の岩脈帯に点在する「温石(おんじゃく)層」は、硬度1〜2度の軟質で加工がしやすく、油性に富むため、さまざまな用途に利用された。中でも石鍋製作跡は各所に見られ、雪ノ浦川上流のホゲット石鍋製作所遺跡は国の史跡である。

昭和48年(1973)以降、製作地の詳細な調査が進み、生活遺跡からの出土品や、たき火跡の木炭の年代測定から、平安時代〜室町時代末期頃まで製作され、煮炊具として使われていたことがわかった。
鎌倉末期の『厨事類記』には、山芋粥を作るとき、アマズラを入れて「石鍋ニテニル」とあり、天文4年(1535)の『武家調味故実』には壺焼き料理の項に「石鍋に酒を入れて煎る」と記され、長期にわたって煮炊き道具として利用されたことが確かめられた。

製法は滑石層の岩盤面や岩塊表面に30〜40cmの升目を引いて、そこから円錐台、四角錘台の粗形を彫り取る。その中をくり込んで成形し研磨して仕上げた。形は器の周囲に鍔のあるものや、二対の直方体の耳つきの鍋などがある。製作跡に残るものは、表面に粗いのみ跡をとどめていて、工作過程がよくわかる。
西彼町にも多くの遺跡が確認されており、県の遺跡登録も10ヵ所にのぼる。また、大串郷・永田留義史談会長らの現地調査では、地図に示すように30ヵ所が確認された。

大型遺跡である平山郷字忠五郎「下茅場遺跡」は、現在建設中の広域農道ルートにかかるため、県文化課と町教育委員会共同で発掘調査の結果、きわめて良質な石鍋製作遺跡であることがわかった。
このため、耕地事務所も農道ルートを変更し一部高架の措置を講じ、7ヵ所の遺構のうち5ヵ所が現地に保存されることとなった。埋没を免れない2ヵ所の遺構は、町農村環境改善センターと体育館入口にそれぞれ移されて展示保存されている。
製造された石鍋は、畿内から鎌倉まで運ばれ、一説では、その運送を担ったのが「海夫」と呼ばれる海民であったとされる。八木原郷鍋ノ浦、喰場郷の温石原、ナベシ谷、平原郷鍋石谷など、石鍋にちなんだ地名も残っている。

写真  4〜  8    2 御腰懸石と御茶の水

白崎郷字膝行神母衣崎の海辺にある。大村氏の大祖、藤原直澄入郡の際の上陸地として、昭和46年(1971)9月、町史跡に指定された。現在は四本堂公園の一部となり、オートキャンプ場下の海岸、四阿屋の脇に御腰懸石がある。傍に標石があり、表面に「御腰懸石」、裏面に「寛政年中大村信濃守純鎮建之」と刻んでいる。

大村家譜によると、平安時代に朝廷に叛いて討たれた藤原純友の孫である直澄が伊予大洲の山中で成育した。純友の没後40数年を経て、朝廷は純友を許し、直澄を従五位下遠江権守に任じて、肥前の国の内、藤津郡、彼杵郡、高来郡の三郡を賜ったという。
正暦5年(994)、直澄が海路下向の途中、伊ノ浦の瀬戸を渡り、母衣崎に休憩のため上陸したとき、村民が出迎えて母衣をめぐらし、土地の豪族椎野大膳らも加わって着郡を祝ったという。

腰懸石から200mほどの磯辺に湧水がある。この水で直澄に茶を供したことからお茶の水の標石が立っている。直澄は大串の者の案内で、彼杵郡玖原の里寺島(大村市前舟津郷)に上陸し、以後「大村」を姓とした。
(注)大村氏の祖が藤原純友の孫直澄で、前記3郡を得て下向してきたという由来は、これまで定説であったが、近年の研究では否定説が強い。

写真  9         3 刎木(はねぎ)の古城跡

八木原郷天満宮の北にある小高い丘は城の辻と呼ばれ、刎木の古城跡である。この城も八木原氏が築いたものと推考されるが、八木原氏を授けて中浦方と戦った武将、志田三郎もここに拠ったと伝えられる。城跡から南に下った森に志田三郎の墓とされる石祠が建っている。
『大村家記』に「羽木古城在八木原村 大手南方石垣高サ五寸長サ二十間、本丸百十坪、腰郭石垣高サ六尺或ハ五尺、廻リ百間余リ、東ハ海、西ハ険阻、北ニ用水有リ」とある。