西海町・西彼町に残る「長崎要塞地帯(区域)標」

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西海町・西彼町に残る「長崎要塞地帯(区域)標」

西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の郷土の軍事施設301〜302頁に、次のとおり西海町で現在発見されている佐世保関係の要塞地帯(区域)標の標石3本を写真つきで掲載している。

(4)要塞地帯
明治30年(1897)、佐世保に佐世保要塞砲兵連隊が設置された。同32年7月15日、軍機保護法、要塞地帯法が公布され、翌年6月には佐世保要塞地が告示、陸軍要塞砲兵連隊内に要塞司令部が設置された。
要塞地帯は、基準点から一定の距離が決められ、第一地帯、第二地帯、第三地帯とされた。各地帯を通じて、同地帯内の水陸の状況測量、写真撮影、模写、録取、その他多くの制限事項が設けられ、要塞司令官または陸軍大臣の許可が必要とされた。
西海町も大半が要塞地帯に指定された。所々に要塞地帯標の石柱が立てられ、地元では「海軍棒」とか「陸軍棒」とも呼んだ。現在発見されている標石は次の3つである。

さて、この標石は写真に地名はあるが、具体的な場所を書いていない。地元や市教育委員会などで聞いても、標石の所在をもう知る人がいなくなっている。7月8日と26日、佐世保の高橋輝吉氏に案内を願って、標石探しをした。同氏が10年ほど前、見つけたのがほとんどである。

① 長崎要塞第二地帯標(第75号) 左側 明治32年7月14日 後面 陸軍省  (木場)

木場郷のみかんドーム交差点から、旧道に入ると木場公民館がある。裏手の辻山浅一氏宅の玄関前庭に据えられている。家角下の小川を渡る石にされていたのを、戦後復員した辻山氏が見つけ移したものらしい。
要塞第二地帯標で、要塞から約4kmの外線に設置された標石である。

② 長崎要塞地帯区域標(第147号) 明治32年7月14日  (七釜)

郷土誌写真は、畑端に横倒しになっている。草が生えてわかりにくい標石である。高橋氏記憶があいまいとなって、畑を探しきれなかったが、7月26日やっと見つけ出した。
七釜郷首ノ田バス停から県道122号七釜大串線へ入る。七釜本郷の池田病院前から上がってきた道と高台で合い、県道は直角に曲がる。上部に写真のとおり七釜浄水場があり、左奥に九州電力面高瀬戸線27号高圧線鉄塔が見える。
標石はこの鉄塔の2段上の畑端に石垣とされているので、農道を上がり三叉路から鉄塔を目指し畑角へ行く。移設されたと思われず、当時はここに里道があったか、原野だったためだろう。

③ 長崎要塞地帯区域標(第152号) 明治32年7月14日  (七釜白岳)

白岳郷の開拓集落へ行く。七ツ釜への県道122号線から奥へ入った伊東牧場の登りの左に谷間の草原が見える。最奥の植林地内に標石があるので、左の小川沿いに行く。長崎要塞区域標(第152号)である。

開拓集落へ戻り、県道を七ツ釜の方へ少し下ると、左手に松島火力線34号の高圧線鉄塔へ行く九電作業道がある。郷土誌に記していない高橋氏が見つけた長崎要塞区域標(第151号)は、この鉄塔のすぐ近くにある。
②、③(第151号もある)は、要塞第三地帯の区域標で、要塞から約10kmの外線に設置された標石である。

西彼町白崎郷の四本堂公園母衣崎に残っているのは、長崎要塞区域標(第158号)で、前記事にしているから参照。 https://misakimichi.com/archives/2375
最後の写真は、七釜白岳の長崎要塞区域標(第152号)の少し先山中で見つけた石鍋?の破片。
長崎市周辺の要塞地帯標は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/54