三重の主な史跡 (2)  長崎市三重地区

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三重の主な史跡 (2)  長崎市三重地区

長崎市三重地区の主な史跡。三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」(発行年不明、長崎市編入前か)による説明は次のとおり。
三重商工会の次資料も参照。 https://misakimichi.com/archives/2299

写真  1〜  9   野々岳と烽火の跡

三重村の平地、角上の北方に標高333mの通称「野々釜」と呼ばれている高山がそびえております。三重小学校の側の山道を登り始めて約1時間20分位いで頂上に到達することができます。地図を開いて調べてみると「野々嶽」と記されてあります。往昔は恐らく「烽火岳」(のろしだけ)?…と呼んでいたものが時代と共に転訛され「のろしだけ」「のろだけ」「ののだけ」「ののがま」といわれるようになったのではあるまいかとも考えられます。

頂上に到達しますと西は五島灘、北は西彼杵山脈の連山、南は天草灘から東支那海をのぞみ、東ははるか大村の琴湖をへだてて発電所の煙たなびく彼方にくっきりと秀峰多良岳を展望することができます。
山頂は奇岩怪石の一群をなしておりますがこの石群の南斜面をやや下ったところに「かま」ゆわいる烽火台が現存しているのです。私達の調査では直径2.55m、深さ1.10mの円形がまでありますが、しかしこの深さは土砂の流入でかなり埋没しており、工築当初とはだいぶん変化をきたしているものと考えられます。築法は普通の自然石を原始的積みかたといわれます「乱れ積み」方式で燃えやすい石囲いをつくっています。…

…野々嶽の頂上に直径6尺深さ8尺位いの穴があります。徳川幕府時代島原乱の折り、長崎異変の際狼煙をあげて変事を近郷に伝え式見の狼煙を受けて神の浦烽火場に伝達する規定があったそうです。このことについてもう少し詳しくのべますと、三重岳狼煙場は庄屋からその行程10町ほどの山の頂にあり長崎異変のときに式見の鶚岳の火を受けて狼煙をあげ、村中に知らせたとあります。
その始めは寛永15年島原一揆を鎮圧したのちに松平伊豆守が長崎にしばらくとう留して諸事の裁判をしたわけですがそのとき彼の指図によって三重岳に狼火場をつくり、いつも足軽3人が在番してここを守ったわけです。

もし長崎表に異変があるときは長崎の烽火山に狼煙をあげて近隣に急を告げ知らせたわけですが、彼の山の火をもここで受けたといわれます。「烽火山」から「三重岳(野々岳)」そして平戸領の「耶須満岳」ついで筑前国の「宝満岳」さらに中国地方へ移動させたといわれます。この方法はしばらくの間途絶していたのですが文化7年上総介純昌が現在地に再興させて天保13年修理を加えたと記録にあります。…

(注 「野々岳」は三重町背後の山。小学校の遠足の場となっていた。現在の地形図では標高
325m。三重診療所からか、三重小学校前から日田尾集落を通り、長崎リハビリテーションまで上がる。奥の駐車場から永田への道を少し下り、左折してサンコー産廃施設の中を登って行くと
JWFC模型飛行場がある。飛行場脇の道を三叉路まで進み、左上に山道を20分ほど歩くと展望が良い頂上岩に着く。烽火台跡はこの岩に登る所にある丸い石囲みと思われる)

写真 10〜 16   御 岳

三重田郷の県道沿いの山にあって神体は毘沙門天を祭っています。例祭は3月18日、8月16日で石祠、石鳥井があります。建立は文化元年8月25日、三重、黒崎、京泊浦中より之れを建つ」とあります。石鳥井は天保6年に建てられています。

(注 「御岳」は三重田にある小高い山。標高167m。バス停手前から右の坂道に入るとすぐ「御嶽道建設記念碑」がある。集落墓地の中を通り、頂上の毘沙門天石祠まで整備された石段と山道を約570段、20分登る。樹木で展望がきかない山頂となっているが、南の海側は少し見える。
「御岳」には山頂手前に「烽火台」と言われる跡がはっきり残っている。三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」神社の項から「御岳」は引用した。「烽火台」の説明がないのでわからないが、現地には朽ちた地元説明板があり、大村藩の火上げ場で、三重周辺海域の変事の際、大村藩に知らせたとあった)