三重の主な史跡 (1)  長崎市三重地区

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三重の主な史跡 (1)  長崎市三重地区

長崎市三重地区の主な史跡。長崎県HP「長崎県の文化財」、三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」(発行年不明、長崎市編入前か)などによる説明は次のとおり。
三重商工会の次資料も参照。 https://misakimichi.com/archives/2299

写真  1〜  8   三重海岸変成鉱物の産地  長崎県指定天然記念物

指定年月日 昭和53年3月31日  所在地 長崎市三重町  管理者 長崎市
西彼杵半島は、主として堆積岩起原の変成岩で構成され、大部分は石墨に富む黒色片岩であるが、一部に石墨を含まない石英片岩もあり、一括して西彼杵変成岩類とよばれている。これには所により、連続性のよい薄い緑色片岩や蛇紋岩などの緑色岩を伴う。
長崎市三重海岸に露出する緑色岩には、陽起石、緑廉石、緑泥石、曹長石などの変成鉱物と共に、ヒスイ輝石が含まれている。ヒスイの存在は、九州大学理学部地質学教室西山忠男氏によって初めて確認され、正式には昭和53年3月に地質学雑誌で発表された。
ヒスイは世界的に産出が稀な鉱物であり、多くの宝石ヒスイのに原産地はビルマである。日本の産出では新潟県小滝が有名である。三重町三京海岸では、1〜1.5m大のヒスイ輝石群が転石として3個あり、最大のものは長崎県立美術博物館に保管されている。
(長崎県HP「長崎県の文化財」から)

(注 三重海岸変成鉱物の産地は、国道202号線三京マリンヒルズ翡翠ヶ丘公園左側下の三京海岸や樫山海岸で見られる。一帯は鉱物採取が一切禁止。見学のみにとどめる。掲載写真は、現地で適当に撮ったもの。本文のヒスイ輝石群ではない)

写真  9〜 12   翡翠ヶ丘公園

ヒスイが採れたところから命名された三京町の翡翠ヶ丘公園からは、新長崎漁港を中心に発展を続ける街並みが一望できるほか、眼前に広がる海原に浮かぶ神功皇后伝承の島、神楽島も望むことができます。平成10年には、長崎魚市場の誘致をはじめ、長崎県水産業の発展、地元三重にも大きな功績を残している柏木哲翁の銅像も建立されています。
(三重・外海の情報発信ネット「ミエるぞ!ネット」観光マップから)

写真 13        神楽島

三重港外の約4km近い南の海に浮んでいる島で沖平半島に近接して長崎市式見町と対しており、さざえ崎との間は干潮時には約800m位いになります。この島は隣りの式見と三重とでそれぞれ半有されており正確には南の方を式見が2/3、北の方を三重が1/3領有しているわけですが、このことについて「三重郷村記」に次のように記録してあります。「瀬戸郡の奉行加藤左司馬の在任中、文化十年正月三十日、三重、式見両村の支配地とし、双方より松植さる」とあります。またこの島は古くから両村の争いの的になっていたらしく式見唄に次のようなものがあります。…唄略。 

写真 14        西大瀬

三重港入口のところ「畝」よりに位置しており大潮のときには徒歩で渡られます。立岩で頂上に数本の松木がありますが、この瀬は文政12年3月に長州豊浦郡和久村の網師である新屋満茂という人が網代見立てをして鮪網を設置したところでもあります。

写真 15        能 瀬

樫山の青瀬の鼻から1町40間程西南西にあり、この瀬では延宝5年12月13日に帰国しようとしていた唐船が激浪のため破船したところです。また明治史に有名な江藤新平、榎本武揚らが乗りこんだ船がやはりこの瀬で難破し、久松正之氏の親類になられる樫山の楠本家に立ち寄ったことが発覚し、その後楠本家の人達は深堀藩の方へ呼び出されて厳重に取り調べがなされた、という話が伝えられております。
(以上、三重中学校郷土史クラブ編「三重村史雑記」から)