雲仙普賢岳陸軍電探基地

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雲仙普賢岳陸軍電探基地

本土防衛作戦要綱にあった対空警戒所のうち、電探基地の跡「雲仙普賢岳」と、「野母崎遠見山」については詳細を紹介する。
「雲仙普賢岳」の掲載資料の説明は次のとおり。遺跡がわかるのは、山頂へすぐ出る登山道の左側小ピークとの鞍部。今新しい普賢神社の石祠がある背後の方に大きな石組みの跡などが壊れて散乱していた。登山者の避難小屋かと思っていたが、これは当時、仁田峠窪地の兵舎と別に、ここに送信分隊兵舎があった跡のようである。普賢池に残っていたのも同じような施設でないか。
「野母崎遠見山」は、次項とする。

小浜町・小浜町教育委員会「おばま−史跡めぐりガイド−」平成11年
東部(雲仙)      雲隊と電波塔             88頁
第二次世界大戦中、雲仙はその山岳地形により重要な役割を担うために軍により接収されていた。なかでも、一個中隊程度(200名〜300名)の情報通信部隊(監視隊か?)が普賢岳周辺に配置されていた。普賢岳頂上に偵察用電波塔が建設され、その近くに情報を受信する見張り台があり、兵舎は仁田峠にあった。もちろん、当時これらはすべて国家機密であったらしい。隊長は現在東京に在住されている緒方成男氏(77才)で、氏はたびたび来仙され、本隊の歴史的価値よりその遺産化のために尽力されているという。

熊本の戦争遺跡研究会編「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編」2007年
髙谷和生氏稿「橘湾地区の防衛」   128頁
雲仙普賢岳陸軍電探基地
雲仙普賢岳には西部軍第36航空情報隊・通称「雲隊」の緒方隊100名が配置され、電波探知機甲(飛行機が送受信所を連なる線に近づいたり、横切ったりした時に探知)を設置、対空監視を行っていました。
その期間は1943年秋から44年11月までの期間で、現地には兵舎基礎部、水槽が確認されています。
詳しくは植木和憲さん(60歳)の研究「島原半島の戦争遺跡 雲仙普賢岳陸軍電波探知機基地」(『2004年度教文しまばら第22号』長崎県高等学校教職員組合島原支部発行)をご覧ください。

(注) 上記の植木和憲氏教育研究論文は、当会の研究レポート第3集に全文を転載収録させてもらっている。当時の写真も同論文のもの。