戦争末期の南串山  南串山町郷土誌から

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戦争末期の南串山  南串山町郷土誌から

橘湾沿岸の戦争遺跡の「南串山京泊震洋基地」は別項8で紹介しているが、南串山町郷土誌には戦争末期の町の暮らしの様子とこの基地のことなどを、次のとおり詳しく記している。
他市町の郷土誌にはほとんど見られないことで、貴重な記録となっている。

南串山町 「みなみくしやま 南串山町郷土誌」 昭和60年
今・昔・そのまた昔 −通史— 昭和時代    328〜330頁

戦争末期の南串山
太平洋戦争の緒戦は戦果をあげていたが、昭和十七年四月、東京空襲を受けてから米軍の総反撃となり、昭和二十年にはB29の爆撃がものすごく、日本全土の主要都市は廃墟となった。
南串山でも敵機の爆音がはげしく敗戦の様相も日一日と濃くなり、本土決戦も辞せず最後の勝利を信じて一億総反撃の意気にもえていた。

日本一若い兵隊さん −吉田一則−
毎年、少年航空兵の募集があっていた。昭和十九年度は南串山第二小学校から二名合格した。その一人吉田一則(小竹木吉田重太郎二男)には、在学中に入隊令達書が届けられた。義務教育の在学中の入隊は初めての事である。同級生一同、入隊の前日学校を休んで村内八社参り(当時応召入営のとき必ず行なった)をし、一則をかこんで武運長久を祈願した。戦時教育を受けていた子供達の顔は、意外に明かるかった。一則は頭脳明晰、運動力もすぐれていたが、体躯は小柄で可愛い子供といった少年であった。勇躍村をはなれて入隊した。

少年航空兵が京泊に駐留
昭和十九年少年航空兵が京泊に駐留、第二小学校(当時国民学校)に宿泊し、京泊・田の平両側の海岸断崖に横穴壕を掘り始めた。隣接町村からも応援工事に協力した。
昭和二十年四月には「マルヨンテイ」人間魚雷用舟艇の操縦士(航空飛行士)岩切部隊が第二小学校を兵舎とし、活動態勢にはいった。敵の本土上陸に対する人間魚雷の作戦であったという。

地域社会のようす
村内各部落には防空態勢が編成され、警察署の指導でよく訓練されていた。各家庭や地域には防空壕が掘られ、服装は、防空ズキン・モンペ・ハダシタビ・戦闘帽・巻脚絆といったいでたちである。布類の配給点数も少なくなり、タオルなどは古い蒲団の布などを代用している者もいた。
農業・漁業も働き手が応召されて手不足、肥料不足、漁火も禁止されるなどで不漁、不振となり、農家も供出割当に難渋していた。戦争遂行のため、あらゆる物資が欠乏していた。村当局の通達により各部落ではヒマ栽培、松根油の採集に努力した(村内の老松はすべて根本に傷がつけられた)。

学校のようす
戦は益々はげしくなり、空襲警報による避難が多くなる。高学年は出征軍人や戦死者遺家族の畑仕事の手伝奉仕、運動場のすみには雑草を刈り集めて堆肥つくりに精出した。
教師は、日宿直は勿論、空襲警報の場合は夜間でも唯ちに登校して学校を守り、御真影(天皇・皇后の写真)の奉安につとめた。第一校には堅牢な奉安殿があったが、第二校では災害の場合、職員室奉安所から移転するよう奉安箱が用意されていた。子供たちの歌もほとんど軍歌となっていた。
大人も子供も死を考える時代であったが、子供達は長期にわたる戦時教育の徹底した中に成長しているので、「勝つまでは ほしがりません」といいながら割合に明るくのびのびとしていた。
昭和十九、二十年には国民学校高等科卒業後、女子生徒は身体検査を受け、挺身隊として大村、諫早の工場で航空戦闘機関係の仕事に精励した。