千々石砲台と小浜温泉鉄道
橘湾沿岸の戦争遺跡の「千々石砲台」は別項5で紹介しているが、この砲台の造りにはおもしろいことがある。場所は千々石から富津を通る温泉鉄道跡の県道201号線を5分ほど行った釜という所の先。千々石第1トンネルがある。トンネルに入ってすぐ右手の壁面を見てみよう。
この右裏の海岸高台が砲台であった。この砲台への出入りに、昭和13年すでに廃線となり、鉄道として使われていないトンネルに横穴を空けて利用していた。
現在、砲台の壕はコンクリートで塞いだり、フェンス囲いして外側から入れない。トンネル内の壁面は、終戦後同じ石材で築きなおしている。補修跡がはっきりわかる。見てて何となく愉快に感じる戦跡である。こんなことは観光案内や郷土誌もふれていない。トンネルは戦時中、海軍工廠に利用された証言がある。
ところで、この愛野ー小浜間の「温泉鉄道」。線路などの跡は残っているが、いつ頃走ったのかあまり知られていない。他の本によると沿岸を長崎まで引く計画もあったらしいから末恐ろしい。時代に翻弄されたこの鉄道の歴史を次の2資料から簡単に紹介したい。
千々石町 「千々石町郷土誌」 平成10年11月
第二編 第五節 文明開化 249〜250頁
2 島原鉄道と温泉鉄道
(略)この年小浜鉄道も起工式を行い、難工事の末、一九二七(昭和二)年千々石、小浜北野間一一キロが開通した。こうして愛野村駅から愛野・水晶観音・上千々石・下千々石・木津が浜・富津・小浜へと鉄道が延びた。(「千々石町史」「小浜町史談」「島原新聞記事」)
この両鉄道の営業で、小浜・雲仙への交通は便利になったが、すでに一〇年も前に愛野村・小浜村間に乗合自動車が運行していて、自動車の時代を迎えていた。それで観光客の利用も多くなく、地元の人も思う程活用しなかった。また千々石・小浜間は釜岳斜面にレールを敷設したので、難工事の連続であり、工費がかさんで開通が大幅に遅れた。おまけに短区間の鉄道であるのに、温泉・小浜と二社に分かれていてと、開通はしたものの難問題が多かった。両社が合併して雲仙鉄道になったのは一九三三(昭和八)年のことである。
その一年後に、長崎県営自動車が長崎・雲仙間に自動車を運行したので、それが打撃となってますます営業不振となった。島原鉄道が経営に乗り出したが、多額の赤字はどうにもならなかった。
一九三八(昭和一三)年に株主総会を開いて会社の解散を決定した。わずか一五年で汽車の時代が去った。出資していた地元経済界は多額の負債を抱えた。残念なことに、この雲仙鉄道関係の記録があまり残されていない。ただ線路跡が汽車道として残っているだけである。駅跡には石造りの駅名表示板が、路線図と汽車の勇姿を陶板に焼き付けて掲げている。
この軽便鉄道は七〇歳以上の人たちにとっては思い出深い汽車ポッポである。
小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道 384〜385頁
愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。
(追 記)
本ブログの「お薦め図書」(別項)としている熊本の戦争遺跡研究会編「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ熊本県南編」は2007年8月15日刊行された。
この中に髙谷和生氏稿「橘湾地区の防衛」が122〜129頁にあり、「千々石砲台」は次のとおり記されている。
千々石砲台
この砲台は愛野砲台の対岸に位置し、現千々石第1トンネルの北側坑口付近にあります。すでに廃線となった旧小浜温泉鉄道トンネル跡を利用し、トンネル側から掘り、岩盤をつきぬけ砲台射線を千々石海岸に向けました。射線は海岸の深部と限定されますが、特に秘匿性をねらった砲台だったようです。
愛野・千々石砲台は第103分隊の稗田秋儀兵曹長の部隊で防衛がなされていました。また、附近には釜山、富津の砲台も設置されました。