脇岬の観音詣でに長崎から1日で行かれたか
近隣の集落からは行かれたかも知れないが、長崎市中からとすると普通の人では無理ではないか。七つ立ちといい提灯片手に午前4時頃長崎を出発、観音寺で昼食、真っ暗になって長崎へ帰りつくという1日行程であるが、往復56kmの山道である。余程の健脚と体力がないとできない。修験者野田成高は、「日本九峰修行日記」によれば「辰の上刻(午前7時頃か)発し、昼時観音寺着」と記しているが、彼は往復していないのである。
関寛斎の歩いた4月3日は新暦の5月10日頃となったので、日記と同じコースを同じ時期に同じ時間で歩けるか、試してみようと計画したが、私たちでも最初から歩ける自信はなかった。2回に分けざるをえなかった。片道でさえそうである。
これに関連し、平成17年5月末、会の催しでダイエー南長崎店から平山の長崎道から団地上に上がり、蚊焼から岳路・高浜を通り堂山峠を越えて観音寺まで、当時の道歩きを忠実に再現してみた。携帯電話の距離計測で磯道町からも22km、7時間かかった。
司馬江漢、関寛斎の行程も1泊2日である。観音寺は風待ちの唐船水夫を泊めたと記しているものもあり、寺は観音詣での人も宿泊させたのではないか。江漢は「爰(ここ。観音堂)二泊ル」。寛斎は脇津の「客舎」(やどや。旅館)。修験者野田成高は御崎村「峰隼人」宅泊りである。
一方、船便が野母または樺島、脇津を中心にしてあったことは、街道絵図などに航路が描かれており、わかるのである。宿屋は舟宿と言うとおり船着場に多くあった。観音詣での人も関寛斎と同じように利用したのではないだろうか。
以上は、平成17年刊第1集A−1、56頁の記述で「近隣の集落からは行かれたかも知れないが、長崎市中からとすると普通の人では無理ではないか」と述べていた。
このことは、長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年刊所収徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」の「(五) 江戸期の観音禅寺」に、「大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」と出てくる。「日帰り」が一般的に多かったようにとられる書き方である。
近隣の集落で聞いているのは、戦争に召集されたとき武運長久を願って必ず観音参りする習わしがあり、それは壮年の元気ある人たちの話で、明治末期や大正時代になると道もだいぶん整備されてきて、歩きやすくなったのではないだろうか。
同著には、また「江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。…江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた」と、お寺の本堂を解放し宿泊所として利用させていたことを紹介している。
(注) 徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」は、第3集35〜38頁に関係資料1として掲載している。
なお、平成18年5月21日には、新聞に広報し10人ほどで完全な「みさき道」1日歩きを試している。湊公園午前8時発、三和公民館午後1時半着、脇岬観音寺に着いたのは午後6時。中食・休憩を入れて片道のみで約10時間の行程となった。