「観音信仰」と観音寺参り(御崎詣)

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「観音信仰」と観音寺参り(御崎詣)

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の原田博二氏稿「観音信仰と御崎街道」379〜395頁の関係部分は次のとおり。

観音寺は古くは仁和寺の末寺で肥御崎と称され、『元享釈書』にも記述されているように、観音信仰の一大霊場として大変著名であった。
観音信仰というのは、その名のように観音菩薩に対する信仰であるが、平安時代の末期からは末法思想の流行とあいまって、来世信仰・浄土教信仰が発達、観音信仰も来世救済の信仰へと変貌し、地蔵とともに引路菩薩として地獄抜苦・大悲代受苦の菩薩として仰がれた。さらに、勧進聖らによって多くの観音霊場が生まれ、清水寺や長谷寺が各地に広がるとともに、熊野や日光を補陀落山に擬する風習も流行、各地に熊野三十三度詣や三十三観音や西国三十三番の設定などが盛んにおこなわれた。江戸時代になると、各地に三十三所や六観音、または七観音などが盛んに設定され、民衆の行楽の風潮とあいまって、大変な賑わいを呈した。観音の縁日を十八日とする風習は、承和元年(834)、宮中の仁寿殿では毎月十八日観音供をおこなったことにちなむものといわれる。(略)

観音寺に現在でも伝えられている絵画類や多くの仏具類、境内の石造物などのほとんどは、江戸時代の長崎の人達によって寄進されたものであるが、このことからも、江戸時代に実際にこの寺を支えたものは、長崎の人達による観音信仰であったということがよくわかるのである。(略)
このように、江戸時代から長崎の人達による観音信仰は大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)は早朝より多くの長崎の老若男女で賑わった。この風潮は戦後もしばらく残っていたようで、朝まだ暗い内に長崎を発ち、観音寺で昼食、そして夕方暗くなって長崎に帰りつくという一日の行程であった。(略)

長崎と野母崎との関係は、寛永十五年(1638)二月、老中松平伊豆守が日野山頂上に遠見番所を設置して以来、重要視され、さらに、万治元年(1658)遠見番一〇人が常備されると(年中二人ずつ勤番、二十日交代、唐船帰帆時は四人勤番、毎年六月〜オランダ船の入港までは遠見番触頭十日交代)、一段と重要なものとなり、遠見番などの役人の往来も頻繁なものとなっていった。また、深堀鍋島家も諫早家と同様、佐賀藩の長崎警備の一翼を担っていて、長崎の浦五島町には深堀屋敷なども設置されていたので、長崎と深堀の間を往来する深堀の侍達の往来も多く、御崎街道は一面、軍用道路的な性格も有していた。

『長崎名勝図絵』には、長崎要路として東泊口、茂木口、頴林(いらばやし)口、日見嶺口、馬籠口、西山口の六つをあげており、「東泊口、長崎の南、更に南へ下れば深堀、野母浦。少し舟に乗って樺島に至り、あとは大洋である。」と記述されている。この東泊口というのは、西泊に対するもので、現在の戸町のことであるが、現在の梅香崎町や新地町、常磐町、大浦町にかけての一帯は、江戸時代は海であった。すなわち、湊公園や、長崎バス本社ターミナル、長崎市立市民病院、長崎税関なども江戸時代は海の中であった訳である。そこで、一般的には、市中から深堀・野母方面に行く場合は、船大工町・本篭町(篭町)から唐人屋敷の前を通り、十人町から大浦の石橋へと達するコースか、中小島や西小島から小田原を通って、現在の“ドンの山”から大浦の方へと下るコースを通っていた。(略)