野母崎樺島の戦中記録  昭和38年長崎新聞記事から

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

野母崎樺島の戦中記録  昭和38年長崎新聞記事から

樺島は長崎半島の最南端の島。昭和61年「樺島大橋」が開通、脇岬と結ばれた。樺島の戦争遺跡については、地元樺島の荒木寿氏調査により、樺島港内に入る左岸「京崎」を天草側へ向いて回りこんだ白浜という海岸を10分ほど歩いたところに、岩面を掘った射堡の横穴壕があったことが判明した。今は1つしか確認できなかった。別図第二は天草へ向けて「水中障害物設置海面概区」が前面海域の場所に表示されている。

荒木氏が地元で具体的な貴重な資料を見つけてくれた。以下の長崎新聞「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」昭和38年8月31日付の記事である。記事には震洋艇は海岸の壕でなく、「漁協前の網干し棚下にかくまって」いたと記されている。当時の樺島港内の様子を推測できる古写真を、荒木氏が所持されている。樺島には海軍海面砲台2門も設置されており、その跡も現地確認している(別項参照)。なお、射堡などの説明は、次のとおり。

射 堡 陸上から、進入する艦艇を魚雷攻撃する基地。沖縄中城湾で実戦利用。横穴壕から敷設レールで発射管を搬出し、射線を確保し、圧搾空気による魚雷発射。「九〇三式連装魚雷発射管二型では、全長8.9m、全幅4.5m、重量12㌧(髙谷氏資料から)
震 洋 艇首に爆薬を装着したいわゆる「特攻用モーターボート」で、他の特攻兵器に比し構造が簡単で大量に生産された。震洋一型の性能は、全長6m、幅1.65m、吃水0.6m、排水量1.35㌧、速力23ノット、航続力20ノットで250海里、爆薬約300kg、12cm噴進砲1基を装備し、乗員は1名である。(戦史叢書から)

長崎新聞「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」昭和38年8月31日付

終戦半年前に決定
みぞれ混じりの北風がピューピューと電線にうなり、低くたれこめた時雲が部落も島影も蔽っていた。これと同じように戦局も暗く、日本全土には、B29が飛来し、南方戦線もまた、次第に後退して灰色が濃いころ−。
横須賀海軍水雷学校の分校である川棚特攻訓練所から特攻服に身を包んだ若い一人の将校が西彼杵郡野母半島の突端にある樺島の浄土宗無量寺を訪れたのは終戦の幕が降りる六か月前、昭和20年2月のはじめのことだった。そのころ、樺島は本土決戦−米軍上陸にそなえて京崎の白浜に二つの魚雷発射場が、また周囲の山には砲台が次々に造られるなど要塞化が進められていた。
村民は、"本土防衛""必勝"を信じて婦人会や小学生までモッコかつぎや防空壕掘りに懸命。島全体が"火の玉"と燃えていた。
無量寺の本堂で柳崎輝月師(現在67才)と対座した特攻服のT大尉がおもむろに口を切った。
「これは、軍の極秘事項だがこの樺島をマル四艇の中間基地にすることになった補給と発進をやる重要任務だ。それで、このお寺に無線指揮本部と砲台部を置きたい。ぜひ協力してほしい。」
柳崎師にとっては全くヤブから棒の話し。命令口調であるが、その言葉の中には、何かにすがりつこうとする必死の色がみられる。腕を組み、じっと考え込んで、柳崎師は無言。「……」「老師、どうか協力を」T中尉は身を乗り出してたたみ込むように返事を待つ。やがて「お国のためです。それに私の二人の息子も予科練に入っている、ようござんす、自由にお使い下さい。」口を開いた柳崎師は、きつぱり言い切った。

一週間で基地完成
帝国海軍で二番目に優秀だという無線機をたずさえた本部要員一個小隊(30人)が高速艇で樺島に入ったのは、それから三日後の2月10日、すぐ無線が同寺母堂2階の四畳半の部屋に据え付けられ、大小のアンテナがはりめぐらされた。補給物資も次々と運び込まれ、米・缶詰・衣類などは、本堂の裏に山のようにつまれた。
また、樺島と脇岬の瀬戸にある中之島はガソリンを詰めたドラムかんが数百本も持ち込まれ、むしろと枯れ草でおおいかくされた。
こうして"マル四艇樺島基地"は一週間たらずで実現。弾薬を腹にいだいたマル四艇数十隻が入れかわり、たちかわり樺島漁協前海岸に姿を見せ、それがいつとはなしにどこかに消えていくようになった。
純白のマフラをなびかせた若い隊員は出発直前のひとときをこの無量寺や民家で過ごすが、その顔ぶれは毎日毎日変わってゆく。死を直前にしているとゆうのに彼らの表情は案外あかるかった。
柳崎師や島の人達は二度と帰ってこないマル四艇とその若い乗組員をだまって静かに見送っていた。

三菱造船で二百隻
このマル四艇は戦況がしだいにかたむきかけた昭和19年4月に軍司令部が航空本部に命じて製作させた水上特攻艇、全長15.1メートル、重量1.4トンで総ベニア板製、自動車エンジンをつけ速力23ノットの一人のり高速モーターボートで艇首に爆薬を積んで敵艦船に突っ込み、体当りの攻撃をかけるため計画された。航空、水中の各種特攻兵器の生産が行き詰まった時だったが、マル四艇は大量にストックされていた自動車エンジンを使って大量生産がはじまり、三菱長崎造船所でも200隻が造られた。
そして、卒業して乗る飛行機がない甲種予科練習生がこのベニア板製の特攻艇に若い命をたくすべく川棚訓練所で養成されていたのである。物量に圧倒的な強味を持つ米軍はレイニ島から沖縄へと、じりじりせまってくる。これに対抗するには 〜日本魂〜 一発必中の特攻しかなかったのだ。
大本営が本土決戦態勢に入ってからのその必要性はますます強くなり、マル四艇の樺島出入りはぐっとひんぱんになってきた。

かぎつけたグラマン
マル四艇は、きょうも樺島港に爆音をのこして飛び出していく。一隻、ニ隻、三隻と…しかし、これから船艇は何処に出撃するのか?行き先は全くの謎である。
耳をつんざくようなエンジンの響きと白波の航跡が交錯する樺島港に真夏の太陽が輝く7月の始め、敵艦上機グラマンが姿を見せマル四艇を捜し出した。
それから、不気味な偵察が数日間続いたのち、やがて機銃掃射の雨がマル四艇を襲いはじめたのである。
長崎市に原爆が投下された三日前の8月6日朝、川棚訓練所からS大佐指揮のマル四艇二十隻が白波をけって入港してきた。大佐の艇だけは、両脇に魚雷をかかえている。漁協前の網干し棚下にかくまわれると、全隊員が上陸、無量寺にやって来た。「お世話になります。」とひと声かけて…。S隊長を除くみんなが予科練の若者ばかり。
5時過ぎ、指揮本部に全艇出動の無線指令が入った。待ちかまえたように隊員はかけ足で海岸へ。全艇が高音をたて島をあとにした。

襲いかかる敵機群
そのマル四艇隊が樺島港をでて京崎鼻を回り、白浜の沖にさしかかったときだった。西方上空にボツボツとグラマンの影、敵機は13機だ。
その機影はみるみるうちに大きくなり、マル四艇の群れにおおいかぶさってきた。バリ、バリ、バリ、と耳をつんざくような機銃掃射の音。
「マル四艇がやられている。」柳崎師は、はっとなって本堂の裏山にかけあがった。みると鷹が小スズメを狙った時の格好でグラマンが襲いかかっているではないか。
対空砲火をもたぬ丸裸同様のマル四艇は、右に左に逃げまどうばかり。
ジグザグの航跡と豆粒ほどの獲物を求めて、乱舞するグラマンの姿、海面に泡立つ機銃弾のしぶきは、白浜の沖を文字通り白く模様がえするかの如きすごさである。やがて、力つき果てたマル四艇があちこちで火を吹きはじめた。
そして爆薬を抱いた同艇は一隻、二隻と火災をあげて撃沈。海底のモクズとなっていった。
樺島の沖を真っ赤に染めその全艇が爆沈したのは、ほんの瞬間の出来事だった。

生存者わずか3名
陸上にあった指揮本部も右往左往だ。留守役の甘糟一等兵曹(山形県出身)や志賀二等兵曹(大分県出身)らが金切り声をあげ「遭難マル四艇を救え。」と狂奔状態である。樺島診療所の久々原政一医師が呼び出され、居合わせた海軍高速艇で現場に走る。日はとっぷりと暮れ、波が高かった。
遭難現場に近づくと波の間に「たすけて−!」の声がかすかに聞こえる。
「生きているぞ!」甘糟一等兵がわめく、「あっ、あそこにも」壊れた船体にしっかりと掴まり九死に一生を得た若い隊員3人が艇上に収容された。ひどい傷だ。久々原医師が手早く応急措置をしたが出血は止まらない。うめき声が耳にいたい。「水を…水をくれ」苦痛のなかで叫ぶ哀願が空しく暗夜の海上を流れる。
「早く陸地で手当せねばあぶない」久々原医師の声。暗い海上に泡立つのは波頭だけだ。救助艇は後ろ髪を引かれる思いで捜索を断念し樺島に引きかえした。虫の息の負傷者は無量寺で一夜を過ごし、翌日佐世保病院に移された。S隊長をはじめ、隊員17人は水のもくずとなった。
これは樺島を基地とするマル四艇最後の出発であり、それが悲劇に終わったのだった。