司馬江漢「西遊日記」「西遊旅譚」による御崎観音参りの記録

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司馬江漢「西遊日記」「西遊旅譚」による御崎観音参りの記録

江戸の画家・文人、司馬江漢は、天明8年(1788)長崎を訪れ、御崎観音参りに行き、「西遊日記」及び木版本「西遊旅譚」に表わしている。
断片的な記述のため「みさき道」の詳細はわからないが、貴重な史料である。関係部分を転載した三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の381〜382頁は次のとおり。

司馬江漢 「西遊日記」 天明八年(1788)

(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて、爰より七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎夫婦、外ニかきや(鍵屋)と云家の女房、亦壱人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ)うも能く見ゆ。かきや(鍵屋)婦ハはだし参リ。皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居る。唐人下官の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあかる。皆鼠色の木綿の着物、頭にはダツ帽をかむりたり。初めて唐人をみたり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民琉球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤の二品あり。

(注) 「三和町郷土誌」で(略)された部分を「野母崎町郷土誌」史料78頁から補完した。そのため、表記の違いが文中にある。

司馬江漢 「西遊旅譚」 木版本 寛政六年(1794)刊

十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事、二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。ザボン、橙其外奇草を見る。

(注) 佐賀藩が作製し長崎奉行所が書き写した正保4年(1647)の「肥前一国絵図」と元禄14年(1701)の「肥前全図」の部分図写真が「野母崎町郷土誌」にある。御崎街道は正保時代は竿浦経由だが、元禄時代は深堀軽由に変更されて描かれている。
関寛斎は深堀を「迂路」と記したが、この司馬江漢日記や各資料、諸国道図里程表など見ると、深堀経由が昔からの本街道とも思えるのである。