月別アーカイブ: 2007年10月

脇岬の観音詣でに長崎から1日で行かれたか

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脇岬の観音詣でに長崎から1日で行かれたか

近隣の集落からは行かれたかも知れないが、長崎市中からとすると普通の人では無理ではないか。七つ立ちといい提灯片手に午前4時頃長崎を出発、観音寺で昼食、真っ暗になって長崎へ帰りつくという1日行程であるが、往復56kmの山道である。余程の健脚と体力がないとできない。修験者野田成高は、「日本九峰修行日記」によれば「辰の上刻(午前7時頃か)発し、昼時観音寺着」と記しているが、彼は往復していないのである。

関寛斎の歩いた4月3日は新暦の5月10日頃となったので、日記と同じコースを同じ時期に同じ時間で歩けるか、試してみようと計画したが、私たちでも最初から歩ける自信はなかった。2回に分けざるをえなかった。片道でさえそうである。
これに関連し、平成17年5月末、会の催しでダイエー南長崎店から平山の長崎道から団地上に上がり、蚊焼から岳路・高浜を通り堂山峠を越えて観音寺まで、当時の道歩きを忠実に再現してみた。携帯電話の距離計測で磯道町からも22km、7時間かかった。

司馬江漢、関寛斎の行程も1泊2日である。観音寺は風待ちの唐船水夫を泊めたと記しているものもあり、寺は観音詣での人も宿泊させたのではないか。江漢は「爰(ここ。観音堂)二泊ル」。寛斎は脇津の「客舎」(やどや。旅館)。修験者野田成高は御崎村「峰隼人」宅泊りである。
一方、船便が野母または樺島、脇津を中心にしてあったことは、街道絵図などに航路が描かれており、わかるのである。宿屋は舟宿と言うとおり船着場に多くあった。観音詣での人も関寛斎と同じように利用したのではないだろうか。

以上は、平成17年刊第1集A−1、56頁の記述で「近隣の集落からは行かれたかも知れないが、長崎市中からとすると普通の人では無理ではないか」と述べていた。
このことは、長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年刊所収徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」の「(五) 江戸期の観音禅寺」に、「大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」と出てくる。「日帰り」が一般的に多かったようにとられる書き方である。

近隣の集落で聞いているのは、戦争に召集されたとき武運長久を願って必ず観音参りする習わしがあり、それは壮年の元気ある人たちの話で、明治末期や大正時代になると道もだいぶん整備されてきて、歩きやすくなったのではないだろうか。
同著には、また「江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。…江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた」と、お寺の本堂を解放し宿泊所として利用させていたことを紹介している。

(注) 徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」は、第3集35〜38頁に関係資料1として掲載している。
なお、平成18年5月21日には、新聞に広報し10人ほどで完全な「みさき道」1日歩きを試している。湊公園午前8時発、三和公民館午後1時半着、脇岬観音寺に着いたのは午後6時。中食・休憩を入れて片道のみで約10時間の行程となった。 

「観音信仰」と観音寺参り(御崎詣)

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「観音信仰」と観音寺参り(御崎詣)

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の原田博二氏稿「観音信仰と御崎街道」379〜395頁の関係部分は次のとおり。

観音寺は古くは仁和寺の末寺で肥御崎と称され、『元享釈書』にも記述されているように、観音信仰の一大霊場として大変著名であった。
観音信仰というのは、その名のように観音菩薩に対する信仰であるが、平安時代の末期からは末法思想の流行とあいまって、来世信仰・浄土教信仰が発達、観音信仰も来世救済の信仰へと変貌し、地蔵とともに引路菩薩として地獄抜苦・大悲代受苦の菩薩として仰がれた。さらに、勧進聖らによって多くの観音霊場が生まれ、清水寺や長谷寺が各地に広がるとともに、熊野や日光を補陀落山に擬する風習も流行、各地に熊野三十三度詣や三十三観音や西国三十三番の設定などが盛んにおこなわれた。江戸時代になると、各地に三十三所や六観音、または七観音などが盛んに設定され、民衆の行楽の風潮とあいまって、大変な賑わいを呈した。観音の縁日を十八日とする風習は、承和元年(834)、宮中の仁寿殿では毎月十八日観音供をおこなったことにちなむものといわれる。(略)

観音寺に現在でも伝えられている絵画類や多くの仏具類、境内の石造物などのほとんどは、江戸時代の長崎の人達によって寄進されたものであるが、このことからも、江戸時代に実際にこの寺を支えたものは、長崎の人達による観音信仰であったということがよくわかるのである。(略)
このように、江戸時代から長崎の人達による観音信仰は大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)は早朝より多くの長崎の老若男女で賑わった。この風潮は戦後もしばらく残っていたようで、朝まだ暗い内に長崎を発ち、観音寺で昼食、そして夕方暗くなって長崎に帰りつくという一日の行程であった。(略)

長崎と野母崎との関係は、寛永十五年(1638)二月、老中松平伊豆守が日野山頂上に遠見番所を設置して以来、重要視され、さらに、万治元年(1658)遠見番一〇人が常備されると(年中二人ずつ勤番、二十日交代、唐船帰帆時は四人勤番、毎年六月〜オランダ船の入港までは遠見番触頭十日交代)、一段と重要なものとなり、遠見番などの役人の往来も頻繁なものとなっていった。また、深堀鍋島家も諫早家と同様、佐賀藩の長崎警備の一翼を担っていて、長崎の浦五島町には深堀屋敷なども設置されていたので、長崎と深堀の間を往来する深堀の侍達の往来も多く、御崎街道は一面、軍用道路的な性格も有していた。

『長崎名勝図絵』には、長崎要路として東泊口、茂木口、頴林(いらばやし)口、日見嶺口、馬籠口、西山口の六つをあげており、「東泊口、長崎の南、更に南へ下れば深堀、野母浦。少し舟に乗って樺島に至り、あとは大洋である。」と記述されている。この東泊口というのは、西泊に対するもので、現在の戸町のことであるが、現在の梅香崎町や新地町、常磐町、大浦町にかけての一帯は、江戸時代は海であった。すなわち、湊公園や、長崎バス本社ターミナル、長崎市立市民病院、長崎税関なども江戸時代は海の中であった訳である。そこで、一般的には、市中から深堀・野母方面に行く場合は、船大工町・本篭町(篭町)から唐人屋敷の前を通り、十人町から大浦の石橋へと達するコースか、中小島や西小島から小田原を通って、現在の“ドンの山”から大浦の方へと下るコースを通っていた。(略)

修験者 野田成高 「日本九峰修行日記」による御崎観音詣での記録

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修験者 野田成高「日本九峰修行日記」による御崎観音詣での記録

修験者 野田成高は、文化10年(1813)に御崎を訪れ「日本九峰修行日記」に表わしている。関係部分を転載した野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版、昭和61年刊の史料78頁は次のとおり。

野田 成高 「日本九峰修行日記」 文化十年(1813)

三月廿九日 半天。御崎の観音とて長崎より七里の當り霊仏あり、詣でんと辰の上刻発す、旅館主熊次郎並に八郎次父子同道也。唐船番所、石火矢臺一見す、昼時観音着納経本堂東向寺一ヶ寺、御崎村峰隼人と云ふに宿す。
(略 四月三日までは樺島を托鉢して滞留)
四月四日 晴天。樺島立、辰の刻。元の御崎村へ渡り野母と云處へ赴く、此處九州の西の果也。日の山大権現と云ふへ詣つ、麓より二十丁山に上る、御殿辰巳向、此處より三丁計西の山崎へ出れば長崎奉行の遠見番所あり、四方一目に望む、東は薩州甑島、硫黄ヶ島、天草島、西は五島壱岐、北は平戸、對島等也。絶景の地にて唐船阿蘭陀船も此前を通り長崎へ入港す。右両所の船遠眼鏡にて百里も沖に居るを見付け、長崎へ早速通す。此遠眼鏡台所々にあり、早く唐船を見掛けたる方長崎へ通知し、其甲乙を争ふ事也。此の野母崎役人を川原増蔵と云ふ、此番所にて望見し、永々話したる後御用の遠眼鏡を出して見せらる。五島、壱岐は廿里沖也、然れとも手に取る如く見ゆ、今夕此の番人増蔵宅にて宿す。
五日 野母村川原氏へ滞留。當所に町あり配札、昼より雨に成りたる故帰る。熊野権現に詣つ、又勝行院と云山伏宅へ行く。
六日 雨天。滞留。痘瘡守、安産守、段々頼むに付来祈念し遣す。麒麟けつ等貰ふ。琉球芋の団子馳走あり。
七日 晴天。野母立、辰の刻。深堀と云浦は肥前家の附家老鍋島七左衛門とて高三千也石、諸士家宅大分あり、町少々あり。皆々瓦葺也。當所権太夫と云ふに宿す。

司馬江漢「西遊日記」「西遊旅譚」による御崎観音参りの記録

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司馬江漢「西遊日記」「西遊旅譚」による御崎観音参りの記録

江戸の画家・文人、司馬江漢は、天明8年(1788)長崎を訪れ、御崎観音参りに行き、「西遊日記」及び木版本「西遊旅譚」に表わしている。
断片的な記述のため「みさき道」の詳細はわからないが、貴重な史料である。関係部分を転載した三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の381〜382頁は次のとおり。

司馬江漢 「西遊日記」 天明八年(1788)

(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて、爰より七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎夫婦、外ニかきや(鍵屋)と云家の女房、亦壱人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ)うも能く見ゆ。かきや(鍵屋)婦ハはだし参リ。皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居る。唐人下官の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあかる。皆鼠色の木綿の着物、頭にはダツ帽をかむりたり。初めて唐人をみたり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民琉球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤の二品あり。

(注) 「三和町郷土誌」で(略)された部分を「野母崎町郷土誌」史料78頁から補完した。そのため、表記の違いが文中にある。

司馬江漢 「西遊旅譚」 木版本 寛政六年(1794)刊

十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事、二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。ザボン、橙其外奇草を見る。

(注) 佐賀藩が作製し長崎奉行所が書き写した正保4年(1647)の「肥前一国絵図」と元禄14年(1701)の「肥前全図」の部分図写真が「野母崎町郷土誌」にある。御崎街道は正保時代は竿浦経由だが、元禄時代は深堀軽由に変更されて描かれている。
関寛斎は深堀を「迂路」と記したが、この司馬江漢日記や各資料、諸国道図里程表など見ると、深堀経由が昔からの本街道とも思えるのである。

野母崎樺島の戦中記録  昭和38年長崎新聞記事から

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野母崎樺島の戦中記録  昭和38年長崎新聞記事から

樺島は長崎半島の最南端の島。昭和61年「樺島大橋」が開通、脇岬と結ばれた。樺島の戦争遺跡については、地元樺島の荒木寿氏調査により、樺島港内に入る左岸「京崎」を天草側へ向いて回りこんだ白浜という海岸を10分ほど歩いたところに、岩面を掘った射堡の横穴壕があったことが判明した。今は1つしか確認できなかった。別図第二は天草へ向けて「水中障害物設置海面概区」が前面海域の場所に表示されている。

荒木氏が地元で具体的な貴重な資料を見つけてくれた。以下の長崎新聞「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」昭和38年8月31日付の記事である。記事には震洋艇は海岸の壕でなく、「漁協前の網干し棚下にかくまって」いたと記されている。当時の樺島港内の様子を推測できる古写真を、荒木氏が所持されている。樺島には海軍海面砲台2門も設置されており、その跡も現地確認している(別項参照)。なお、射堡などの説明は、次のとおり。

射 堡 陸上から、進入する艦艇を魚雷攻撃する基地。沖縄中城湾で実戦利用。横穴壕から敷設レールで発射管を搬出し、射線を確保し、圧搾空気による魚雷発射。「九〇三式連装魚雷発射管二型では、全長8.9m、全幅4.5m、重量12㌧(髙谷氏資料から)
震 洋 艇首に爆薬を装着したいわゆる「特攻用モーターボート」で、他の特攻兵器に比し構造が簡単で大量に生産された。震洋一型の性能は、全長6m、幅1.65m、吃水0.6m、排水量1.35㌧、速力23ノット、航続力20ノットで250海里、爆薬約300kg、12cm噴進砲1基を装備し、乗員は1名である。(戦史叢書から)

長崎新聞「今だから言おう 本県の戦中戦後断面史」昭和38年8月31日付

終戦半年前に決定
みぞれ混じりの北風がピューピューと電線にうなり、低くたれこめた時雲が部落も島影も蔽っていた。これと同じように戦局も暗く、日本全土には、B29が飛来し、南方戦線もまた、次第に後退して灰色が濃いころ−。
横須賀海軍水雷学校の分校である川棚特攻訓練所から特攻服に身を包んだ若い一人の将校が西彼杵郡野母半島の突端にある樺島の浄土宗無量寺を訪れたのは終戦の幕が降りる六か月前、昭和20年2月のはじめのことだった。そのころ、樺島は本土決戦−米軍上陸にそなえて京崎の白浜に二つの魚雷発射場が、また周囲の山には砲台が次々に造られるなど要塞化が進められていた。
村民は、"本土防衛""必勝"を信じて婦人会や小学生までモッコかつぎや防空壕掘りに懸命。島全体が"火の玉"と燃えていた。
無量寺の本堂で柳崎輝月師(現在67才)と対座した特攻服のT大尉がおもむろに口を切った。
「これは、軍の極秘事項だがこの樺島をマル四艇の中間基地にすることになった補給と発進をやる重要任務だ。それで、このお寺に無線指揮本部と砲台部を置きたい。ぜひ協力してほしい。」
柳崎師にとっては全くヤブから棒の話し。命令口調であるが、その言葉の中には、何かにすがりつこうとする必死の色がみられる。腕を組み、じっと考え込んで、柳崎師は無言。「……」「老師、どうか協力を」T中尉は身を乗り出してたたみ込むように返事を待つ。やがて「お国のためです。それに私の二人の息子も予科練に入っている、ようござんす、自由にお使い下さい。」口を開いた柳崎師は、きつぱり言い切った。

一週間で基地完成
帝国海軍で二番目に優秀だという無線機をたずさえた本部要員一個小隊(30人)が高速艇で樺島に入ったのは、それから三日後の2月10日、すぐ無線が同寺母堂2階の四畳半の部屋に据え付けられ、大小のアンテナがはりめぐらされた。補給物資も次々と運び込まれ、米・缶詰・衣類などは、本堂の裏に山のようにつまれた。
また、樺島と脇岬の瀬戸にある中之島はガソリンを詰めたドラムかんが数百本も持ち込まれ、むしろと枯れ草でおおいかくされた。
こうして"マル四艇樺島基地"は一週間たらずで実現。弾薬を腹にいだいたマル四艇数十隻が入れかわり、たちかわり樺島漁協前海岸に姿を見せ、それがいつとはなしにどこかに消えていくようになった。
純白のマフラをなびかせた若い隊員は出発直前のひとときをこの無量寺や民家で過ごすが、その顔ぶれは毎日毎日変わってゆく。死を直前にしているとゆうのに彼らの表情は案外あかるかった。
柳崎師や島の人達は二度と帰ってこないマル四艇とその若い乗組員をだまって静かに見送っていた。

三菱造船で二百隻
このマル四艇は戦況がしだいにかたむきかけた昭和19年4月に軍司令部が航空本部に命じて製作させた水上特攻艇、全長15.1メートル、重量1.4トンで総ベニア板製、自動車エンジンをつけ速力23ノットの一人のり高速モーターボートで艇首に爆薬を積んで敵艦船に突っ込み、体当りの攻撃をかけるため計画された。航空、水中の各種特攻兵器の生産が行き詰まった時だったが、マル四艇は大量にストックされていた自動車エンジンを使って大量生産がはじまり、三菱長崎造船所でも200隻が造られた。
そして、卒業して乗る飛行機がない甲種予科練習生がこのベニア板製の特攻艇に若い命をたくすべく川棚訓練所で養成されていたのである。物量に圧倒的な強味を持つ米軍はレイニ島から沖縄へと、じりじりせまってくる。これに対抗するには 〜日本魂〜 一発必中の特攻しかなかったのだ。
大本営が本土決戦態勢に入ってからのその必要性はますます強くなり、マル四艇の樺島出入りはぐっとひんぱんになってきた。

かぎつけたグラマン
マル四艇は、きょうも樺島港に爆音をのこして飛び出していく。一隻、ニ隻、三隻と…しかし、これから船艇は何処に出撃するのか?行き先は全くの謎である。
耳をつんざくようなエンジンの響きと白波の航跡が交錯する樺島港に真夏の太陽が輝く7月の始め、敵艦上機グラマンが姿を見せマル四艇を捜し出した。
それから、不気味な偵察が数日間続いたのち、やがて機銃掃射の雨がマル四艇を襲いはじめたのである。
長崎市に原爆が投下された三日前の8月6日朝、川棚訓練所からS大佐指揮のマル四艇二十隻が白波をけって入港してきた。大佐の艇だけは、両脇に魚雷をかかえている。漁協前の網干し棚下にかくまわれると、全隊員が上陸、無量寺にやって来た。「お世話になります。」とひと声かけて…。S隊長を除くみんなが予科練の若者ばかり。
5時過ぎ、指揮本部に全艇出動の無線指令が入った。待ちかまえたように隊員はかけ足で海岸へ。全艇が高音をたて島をあとにした。

襲いかかる敵機群
そのマル四艇隊が樺島港をでて京崎鼻を回り、白浜の沖にさしかかったときだった。西方上空にボツボツとグラマンの影、敵機は13機だ。
その機影はみるみるうちに大きくなり、マル四艇の群れにおおいかぶさってきた。バリ、バリ、バリ、と耳をつんざくような機銃掃射の音。
「マル四艇がやられている。」柳崎師は、はっとなって本堂の裏山にかけあがった。みると鷹が小スズメを狙った時の格好でグラマンが襲いかかっているではないか。
対空砲火をもたぬ丸裸同様のマル四艇は、右に左に逃げまどうばかり。
ジグザグの航跡と豆粒ほどの獲物を求めて、乱舞するグラマンの姿、海面に泡立つ機銃弾のしぶきは、白浜の沖を文字通り白く模様がえするかの如きすごさである。やがて、力つき果てたマル四艇があちこちで火を吹きはじめた。
そして爆薬を抱いた同艇は一隻、二隻と火災をあげて撃沈。海底のモクズとなっていった。
樺島の沖を真っ赤に染めその全艇が爆沈したのは、ほんの瞬間の出来事だった。

生存者わずか3名
陸上にあった指揮本部も右往左往だ。留守役の甘糟一等兵曹(山形県出身)や志賀二等兵曹(大分県出身)らが金切り声をあげ「遭難マル四艇を救え。」と狂奔状態である。樺島診療所の久々原政一医師が呼び出され、居合わせた海軍高速艇で現場に走る。日はとっぷりと暮れ、波が高かった。
遭難現場に近づくと波の間に「たすけて−!」の声がかすかに聞こえる。
「生きているぞ!」甘糟一等兵がわめく、「あっ、あそこにも」壊れた船体にしっかりと掴まり九死に一生を得た若い隊員3人が艇上に収容された。ひどい傷だ。久々原医師が手早く応急措置をしたが出血は止まらない。うめき声が耳にいたい。「水を…水をくれ」苦痛のなかで叫ぶ哀願が空しく暗夜の海上を流れる。
「早く陸地で手当せねばあぶない」久々原医師の声。暗い海上に泡立つのは波頭だけだ。救助艇は後ろ髪を引かれる思いで捜索を断念し樺島に引きかえした。虫の息の負傷者は無量寺で一夜を過ごし、翌日佐世保病院に移された。S隊長をはじめ、隊員17人は水のもくずとなった。
これは樺島を基地とするマル四艇最後の出発であり、それが悲劇に終わったのだった。

長崎学さるく”長崎の古台場と珍しい標石めぐり”  平成19年10月

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長崎学さるく”長崎の古台場と珍しい標石めぐり”  平成19年10月

平成19年10月14日(日)晴。長崎学さるく行事で4月に続き「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」。参加者はスタッフとも24人。
魚見岳台場ー女神大橋ー神崎台場ー天門峰ー小瀬戸ー鼠島ー神の島ー四郎ヶ島台場ー神の島公園と約12kmを歩いた。

女神大橋を渡る長崎ハーレーフェスティバルの車の列や、天門峰頂上では豪華客船「飛鳥」の出港を見た。
当日の配布資料は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/338

関寛斎の脇岬観音詣でに同行したのは誰だれか

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関寛斎の脇岬観音詣でに同行したのは誰だれか

「長崎談叢19輯」の引用文では、4月4日帰路「黄昏大浦に着し飢あり三人共に一麺店にて三椀づゝ喫し別る」とあり、一行が3人であることがわかった。同行の2人は誰だれか。これは北海道陸別町の協力によって、同町資料館に保存する関寛斎「長崎在学日記」の原文写しが手に入り、「長崎談叢」が省略した4月3日記録の記事冒頭に「昨日ヨリ佐々木ト長嶺氏ヲ案内トシテ相約シテ三崎行ヲ催ス」とあったことによって、佐々木氏と長嶺氏なる人物と特定された。

佐々木氏とは、佐藤泰然が開いた佐倉順天堂の同じ門下生「佐々木東洋」で、師の養継子佐藤舜海と同行して関寛斎も長崎医学伝習所に入塾し、一緒に学んでいたのである。これは年表記事に名前があったことにより推定された。(京都で日本最初に腑分けしたのは「山脇東洋」。時代はまだ前)

一方、長嶺氏は不明で、「案内人」とあったため長崎の人かと、先の余録でふれていた。やはり、肥前平戸人、松浦肥前守臣「長嶺圭朔」であることがわかった。これは兵庫県芦屋市に住む平幸治氏(「肥前国 深堀の歴史」の著者)が、国会図書館などで調査してくださったお蔭である。同氏から受けた教示は次のとおり。(平成17年10月3日付書簡)

A 脇岬に行った3人のメンバーについて
日記の「佐々木」は研究リポートのご指摘のとおり、佐々木東洋であろうと思います。「長嶺氏」は平戸の長嶺圭朔ではないでしょうか。
医学伝習所の塾頭松本良順が記録した入塾者名簿「登録人名小記」が、鈴木要吾著「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」という本に載っておりました。それによれば、寛斎が医学伝習所にいたころ、もうひとり豊後日田の佐々木玄綱という人がいたようですが、この人は文久元年夏入塾のようですから三人が脇岬に行った文久元年4月にはまだいなかったと思われますし(勿論当時の旧暦では4月は夏ですが、入塾早々では一緒に旅する可能性は低いでしょう)、ここはやはり佐倉順天堂から一緒で伝習所入塾も同時期の佐々木東洋で間違いないでしょう。
次に、「案内トシテ」一緒に行った「長嶺氏」については、上記の「登録人名小記」に「肥前平戸人 松浦肥前守臣 長嶺圭朔」とある長嶺圭朔だと思います。平戸の人なら野母半島を案内することができそうです。「蘭学全盛時代と蘭疇の生涯」の著者鈴木要吾氏も、佐々木東洋と長嶺圭朔と書いています(同著58頁)。「長崎在学日記」には長嶺の記事が他所にも出てきます(文久元年3月26日条ほか)。長嶺圭朔の事蹟などはまだ調べておりません。わかったらまたご報告します。

なお、平戸出身のこの長嶺圭朔は、司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」を調べると三巻95頁に名前があり、小説中に登場している。長嶺圭朔の事蹟などは、当方からも平戸市松浦資料館へ照会したが、現在のところまだ不明。御典医であった。平戸市内に今も「長嶺」姓の系譜となる方が3軒ほどあると聞いている。

(注)年表は関寛斎資料館冊子から。

脇岬観音寺が禁制品の交易の場か。また、その商人の経堂が残るか

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脇岬観音寺が禁制品の交易の場か。また、その商人の経堂が残るか

脇岬観音寺については、長崎県文化振興課 HP「長崎文化ジャンクション 文化百選」 みなと編の長崎・西彼[8]脇岬港(西彼野母崎町)が同寺にふれている。長崎新聞社から同じ内容の本が平成6年発行されている。この中に次のとおりあった。

「御崎(みさき)観音と呼ばれ、信仰を集めている地区の古寺・観音寺の境内は江戸時代、長崎奉行所の目を盗み中国から禁制品を運び込んだ交易の場だったとされ、膨大な利益を得た中国商人が罪滅ぼしに寄進したという経堂が残っている」

史料は何から引用し、経堂は現存するのか。長崎県文化振興課に照会したところ、長崎歴史文化博物館本馬先生が次のように調べてくれ、懇切な回答をいただいている。

「私自身観音寺には、そのような経堂が存在するとは聞いたことがありません。あの「文化百選」は長崎国際大学の立平教授たちが委員となり、長崎新聞のOBの人が書いたように記憶しています。伝承を記した本からの孫引きの可能性が強いと思います。唐人関係の「書画」は確かに観音寺にありますが、これは長崎市の文化財に指定するとき、私も観音寺に調査に行って実見しました」

徳山光著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」には、天明期ころ「経蔵(唐船方日雇頭中)」の寄進があったことを記してはいる。

真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」に、街道はどう表われているか 

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真鳥喜三郎著「ふるさと地名の研究」に、街道はどう表われているか 

長崎市立土井首公民館蔵。著者は江川町に在住し昭和57年死去。土井首小で16年教檀にあった。かたわら土井首地区の地名の由来に歴史民族学の立場から眼を向け、この著書は昔を知るうえで大いに参考となる。
「ケイドウ(街道)」「間道」といろいろな道を説明されているが、深堀道それから御崎道に続くルートは、現在の道に当てはめてどれが本道だったのか。どの道なのか。地蔵尊所在地の図を見ても、私たちは推測するだけで、判読できないのが非常に残念である。
関寛斎一行が鹿尾川を渡ってから深堀に入るのに、江川回りと網代回りが考えられので、この参考のため調べているが、まだ不明のままである。

真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」 昭和57年 8〜58頁
(主に土井首地区の地名の由来)

(略)杠葉病院登口付近を波切口といい、そこに現在小さな波切口橋がかかっている。この川(草住からの小川)と鹿尾川の合流地点付近に木場がある。ここは地域に産する木材や薪炭類の集散地即ち寄場でもあり捌場でもある。捌く場合は此処から和船で深堀やその他へ積み出されたのである。(略)
踵を返して再び木場へ戻ると波切口からの流れに小橋がかかっている。これを渡って東進すると鹿尾に達する。(略)これから考えると鹿尾が現在の大字土井首の地を指していた事は間違いない。従って土井首は昔は鹿尾なる呼称の中に包含されていたのである。これから見ると地名発生の地である鹿尾の里は土井首地区に於てどの部落よりも早く発生した最初の聚落であったらしい。(略)

京太郎から引き返して再び鹿尾川沿いに出ると、その川向うの山の中腹に地蔵さんが祭られている。この地蔵さんは土井首地区で唯一の地蔵さんである。もともと土井首地区は浄土真宗の他力信仰圏であり従って自力系の地蔵菩薩とは縁遠くこの地蔵が此処に祭られているのは場違いの感じさえするのである。ただ竿浦や深堀などの自力信仰圏に行くにはどうしてもこの古道を通らねばならぬためやむを得ずその入口に祭られたものと私はひそかに思っている。衆生を導く地蔵尊がその梧道への道しるべとしてここに頑張って下さっているのだろう。

「昔の道」を知る為には地蔵尊を次から次に辿って行けば、それが昔の道であるというのが私の持論である(地蔵尊所在地の図参照)が、この鹿尾の入口にある地蔵尊の次は中学校の裏手に祭られている地蔵尊、その次は堂ノ元橋のすぐ近くに祭られている地蔵さんであるが、これより(今のナフコ奥から尾根越し深堀の御船手へ行く道か)山に入って愛宕山の下の尾根を越えるまでの中途に一つ、尾根を越えて深堀の岩河(いわんご)の地蔵尊までの坂の中程に一つ、これらの地蔵尊を図のように結びつけると昔の道、所謂地区の人達の言うケイドウ(街道)が現出するのである。しかし街道とは言っても今日の道路の観念からすれば全く話にならない程の細道である。それは実際に通って見なければ納得は中々困難である。川の土堤伝いに更には丘を越え崖の上や田の畦を通り地形に沿って九十九折の道を幾曲りか通り抜け狭い坂道を上っては下るという、実地に体験して始めてそのもどかしさ困難さがわかるのである。

中学校裏の地蔵さんに至るまでの途中に落矢という部落がある。ここは街道の坂道を下りた所であるが、ここから江川・末石方面に至る間道が分かれており、その道筋には四か所ほど地蔵尊が祭られており、又堂ノ元橋際の地蔵さんに行きつくすぐ手前で平山方面への昔の道が分れている。この道筋にも二か所ほど地蔵さんが祭られている。以上で地蔵さん関係の昔の道は終りであるが、他力信仰圏の土井首地区になると地蔵さんは全く見当たらず先ず磯道の辻から上の山道を通り四ッ辻に出てそれより網代・毛井首へと下り又江川の道へと通ずるのである。考えてみると昔の道は廻り道が多い。指呼の間に見える所へ行くにも廻り廻って行かねばならない。その結果昔の人達は田の畦や川の土堤など伝って近道を考えたのである。現在の県道はこの近道に沿って作られているものが多い。(略)

この摩利支天の山の根即ち中学校のうしろに祭られているのが地蔵尊であることは前に述べた通りで、この辺一帯を太田と言っている。その名の通り田の広い所である。ここの川にかかっているのが太田橋で県道開通時の橋で、以前は橋もなく江川から高野原小学校(四年制)へ通う児童達はこの川を徒歩(かち)渡りして近道をし畦道伝いに通学したという。この橋の次の橋が堂ノ元橋であるが、これも県道開通時の架橋で勿論以前は橋はなかったのである。(略) 堂ノ元橋近くの丘の上にある阿弥陀堂の一角は竿ノ浦最初の簡易小学校のあった所で人々は堂の学校と呼んでいた。ここを出て高野原尋常小学校(四年制)(現在は山口氏宅地)に向うと学校のすぐ下の道に地蔵尊が祭られている。(略)

踵を返して落合の里にもどると此処から間道伝いに江川・末石の道が開けている。江川墓地の脇に降ると、そこに地蔵尊が祭られている。ここを少し進んで川を徒歩渡し小高い丘の昔の細道を通り抜けると又地蔵さんが祭られている。この少し先きで末石方面への道と江川の木場への道が分れている。木場への道の途中に又地蔵尊が祭られている。一方末石方面への道を進むと太田川沿いの一隅に地蔵さんが祭られており、これから「十郎兵衛」の尾根を越(す。)本当の江川は柳田・落合方面からの流れと太田川の流れが合流する地点から川口までを意味し地区の人の所謂ドンク川がこれに該当する。
太田川の末端付近は低湿地で満潮時には塩水が水田に侵入した。その為人々はこれを防ぐ為に土囲を築いた。これが土井田(エースレーン付近)の名のある所以である。ドンク川の右岸に木場がある。この辺一帯の木材や薪炭類の寄せ場であり捌き場でもある。今は河床が隆起して浅くなったが、昔はここから深堀方面へ薪炭類を積出したのである。これはちゃうど土井首のそれと全く同じである。

江川の川口付近は昔は人家もなく埋め立ても進んでなかった為冬になると北西の季節風がまともに吹きつける海岸であった。ここにノコシという所がある。波越の転化したもので荒波が打越した所だったのであろう。ここを奥に向って進むと地区の人達が言うシャウヤンオックである。これは「潮合の奥」のことである。この辺一帯即ち陶器会社敷地一帯は昔は浅い海であったが次第に陸地化し一条の川筋を残すのみとなったが、この川は所謂潮と水がかち合う潮合の地でありその奥が潮合の奥である。これをシオヤンオックと訛って呼んでいるのである。(略)「潮合の奥」の米ノ山寄りに小名切(小波切)がある。小さいながら土井首の波切と同様潮止の名残りであろう。(略)

平瀬は古語辞典によると「早瀬の対」、川の流れのゆるやかで平らな所とあるが、平瀬の地は川の流れというよりは海水の流れだと思われその流れのほとりの平らな所と解したい。それは北西の季節風をまともに受けるのは末石・江川の海岸であるが、平瀬はその風向とおおむね平行であり風波の影響は薄い。しかも現在毛井首への市道以西の平地は煉炭殻の埋立地であり元は波に洗われていた所で僅かばかりの平地が小丘の底辺にあっただけで耕地も少なく約十アール計りの水田が婆ン井戸の上にあっただけと古老は言う。しかしこのような無人の里がどうして目たたく間に聚落地となったか。それについては理由があるのである。明治二十七、八年の戦後(日清戦争)に勝ったわが国はその余勢をかって海軍の拡張に転じた。軍艦を走らせるにはどうしても強力な石炭を必要とする所からこれを精製して純度の高い煉炭を製成し需要に応えようとしたのである。その唯一の資源は目と鼻の先きにある高島・端島(後には天草からも)の上質炭である。これを処理する場として白羽の矢が立てられたのがこの平瀬である。地の利と言うべきであろう。時に明治三十三年。無人の郷は一躍脚光を浴びて登場したのである。その後缶詰会社の進出があり又江川との間の入江を整地して陶器会社が設立され、これら一連の企業の余沢(よたく「めぐみ・おかげ」)から平瀬は逐次発展の一途を辿ったのである。

土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

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土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

土井首中学校同窓会誌「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」寺井房夫編 東京福田はる刊 平成13年3月発行の19〜20頁の中の記述は次のとおり。編者が土井首大山祗神社前の鹿尾川「ため」の地点を、「その昔、長崎への街道の渡しであったという」としている。

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」

大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。

『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川)等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

同じ記述は、角川書店「日本地名大辞典 42長崎県」や熊弘人著「長崎市わが町の歴史散歩 (1)東・南部」の「古道町」の項にあり、「渡し」と記して誤解を生じやすい。書いている場所は同じようでも、当時この地点は、いわゆる舟の「渡し」でなく、飛び石を踏んで渡った「渡り」なのである。関寛斎日記は「下リテ一湾二出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク」と記す。

土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。明治34年測図国土地理院旧版地図も「渡渉所」。上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片はまだ川底に平らな一部が残っている。

鹿尾川はどの地点をどうして渡ったか。主街道の最重要なポイントでありながら、諸説や刊行本の記述がある。前述のほかに長崎歴史文化博物館蔵、上の写真の文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」(小ヶ倉・土井首部分)と次の史料を掲げるので、参考としていただきたい。

庶務課史誌挂事務簿 「西彼杵郡村誌」第一 明治18年5月

土井首村            61〜66頁
川 鹿ノ尾川渡瀬 縣道二属ス鹿尾川ノ下流字法城方(放生がた磯道団地)二アリ径凡十間許水間ノ僵石(堰石せきいしか)ヲ踏テ以テ渡ル
柳渡シ    村ノ西字磯道ノ海岸二属シ渡舟一艘アリ北小ヶ倉村二渡航スル便路二シ直径凡二百間余私渡
深堀渡シ   村ノ西大迫ノ海岸二属シ渡舟三艘アリ南深堀村二渡航スル便路二シ海上凡半里許私渡
道 路 街道筋  縣道に属ス村ノ北小ヶ倉村界字古道(ダイヤランド3丁目)ヨリ入リ仝南竿ノ浦村界字柳田(江川町支所よりジョイフルサン側)二達ス長サ凡二十四丁余巾五尺許
平瀬道  里道ニ属ス村ノ法城方(放生がた磯道団地)元標地ノ縣道ヨリ西二折レ竿ノ浦村界字小名切(ジョイフルサン左)ノ海邊二達ス長サ凡十三丁許巾凡四尺