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長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像  (北海道陸別町HPから)

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長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像 (北海道陸別町HPから)

陸別町(注 北海道足寄郡 阿寒湖近くにある)開拓の祖とされる関寛斎(幼名吉井豊太郎、寛<ゆたか>とも)は、天保元年(1830年)に現在の千葉県東金市に生まれました。生後、関俊輔(素寿と号して、私塾製錦堂を主宰した儒学者)の養子となり、関を名乗ります。
寛永元年、18歳の時に佐倉にあった順天堂(佐倉順天堂)に入門し、佐藤泰然(さとうたいねん)の元で医学を学びます。そして寛永5年(22歳)に前之内村で仮開業するとともに、この年の12月に君塚あいと結婚しました。仮開業を行ったとは言え、順天堂を完全に離れたわけではなく修行を続けていました。その後、仮開業から4年たった安政3年2月に銚子で開業し、医者として本格的な一歩を踏み出しました。

寛斎に転機が訪れたのは、豪商である浜口吾陵(ヤマサ醤油の当主)の知遇を得てからでした。まず、彼の勧めにより江戸に出て伊東玄朴らの指導を受けてコレラの予防研究を行い、その後に彼の後援を得て長崎に留学しました。(30歳頃)
長崎医学伝習所では、泰然の子である松本良順(後の幕府筆頭医・維新後初代陸軍医総監)らと同じくオランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。この伝習所は松本良順が中心となって設立されたもので、寛斎は63番目の弟子でした。この時の寛斎の見聞は「長崎在学日記」に詳細に記されていますが、医師として医療活動を行った傍らオランダ料理を食べたりワインを飲んでみたというような記録も残っています。またこの間に勝海舟が艦長の咸臨丸の補欠医官も勤めました。

足かけ2年の長崎留学を終えて、文久2年に再び銚子に戻った寛斎は、その年に順天堂時代の同門の推薦により阿波徳島藩主蜂須賀斉裕の国詰侍医として招聘されます。蜂須賀斉裕は将軍家からの養子でしたが、開明的な思想の持ち主だったようです。しかし養子という身で藩政から遠ざけられ、強度のノイローゼになっていました。寛斎は誠意ある診察を行い斉裕からも強い信頼を受けました。
さて、時は幕末。混沌とした中、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発します。実はこの戦いが始まった3日後に藩主斉裕が急死してしまいます。寛斎は典医の辞職を申し出ますが、斉裕の後を継いだ茂韶(もちあき)はこれを許しませんでした。
茂韶は倒幕に参加する決意をして自ら兵を率いて官軍と合流しました。寛斎も軍医としてこれに従い、大阪から海路江戸城に入城します。

そこで突如寛斎に神田三崎町の講武所に野戦病院を開設するよう総督府令が下りました。これは江戸に向かう時に同行していた官軍軍防事務判事である大村益次郎が寛斎の実力を買ったためだったようです。江戸・上野で挙兵した彰義隊の鎮圧に参加し、多くの兵士の命を救ったという事で時の官軍総参謀である西郷隆盛より激賞されています。
この功績により、奥羽戦争時に開設された奥羽出張病院の頭取として東北に赴任します。この時の寛斎の治療スタンスは敵・味方違わず怪我人は全て請け負うという、今で言う赤十字の理念に通ずる考え方で多くの患者を治療したとされています。この時の模様は「奥羽出張病院日記」に詳しく記述されています。

官軍に参加した中堅から幹部のほぼ全員が新政府で要職を占める中、寛斎は奥羽戦争の終結を待って徳島に戻ります。そして明治2年徳島藩医学校を創立し、更に徳島藩病院を開設、寛斎は院長に就任します。
その後、短期間ながら海軍省に出仕し、甲府山梨院長に転任しますが、2年ほどで徳島に戻り、明治7年に現在の徳島市城東高校付近で開業します。
徳島での開業医・寛斎は「赤ヒゲ」的な活動をした事が記録に残っています。貧しい者からは代金を得ず、富める者からはきちんと頂く。しかし自身は質素を旨とした生活だったようです。また、折に触れて蜂須賀家の墓域である眉山に登り、若くして亡くなった蜂須賀斉裕の墓所を訪れていました。

こうして、一応のところ功成り名を遂げた寛斎が北海道移住を 公表したのは、72歳の時だったと言います。既にこの時、長男である又一は札幌農学校(北海道大学の前身)で学び「十勝国牧場設計」という論文を著した後でした。斗満地区(現在の陸別町の他、足寄町、本別町の一部を含む)の広大な土地を払い下げられた寛斎は、現在の陸別町関に入植し、関農場を開きました。
陸別という土地は一から拓くには大変困難な土地柄でした。思うように作物が実らず、疫病で牛馬を多数失った事もありました。それにうち克ったのは、寛斎の「農場を拓く」という強い意志と、又一の「アメリカ流大規模農場」への夢だったと思います。しかしその二人の意思と夢の微妙な違いが悲劇となってしまいました。
寛斎は農場を拓き、それを小作人(農場で働く従業員)に分け与えて自作農を育てようという考えでした。一方で又一はアメリカ流の大規模農業をめざし、スケールメリットを求めたのです。それが一つの要因となり、寛斎は自ら命を絶ったのでした。享年83歳でした。

医師としての寛斎の業績としては銚子時代における種痘が挙げられます。かって難病であった天然痘は種痘を施すことで防ぐことができるという知識が日本に入ってまだ間もない頃の事でしたが、寛斎は銚子で積極的にこれを推進しました。また、著書「命の洗濯」では海水浴と登山を奨励した他、1年足らずの甲府時代は梅毒検査を協力に推進したという記録も残っています。北海道に渡ってからは一旦医籍を返上したのですが、医師がいないという状況を見たせいか、復活させて時折診療に当たったようです。

加えて、文化人としても寛斎は当代一流で多くの文化人、知識人と交流がありました。中でも明治時代の文豪徳富蘆花との交流は有名で、その著書「みみずのたはこと」では一章を割いてその関わりを著述している他、二人の間に交わされた手紙が多数残っています。寛斎自身も前述した「長崎在学日記」に代表されるように非常にこまめな人物で、多くの手紙と著作、日記が残っています。趣味の歌は、「白里」と号して約300首が残っています。「白里」の意味は、その出身「九十九里」を示したもので、「百里」から「一」を引いて白里としたそうです。
寛斎の足跡は、陸別駅に併設されている関寛斎資料館でたどる事ができます。また、町内には歌碑、顕彰碑が多数建立されています。

「忍」 忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん 八十三老 白里
町内青龍山麓にある顕彰碑

壮年者に示す
いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里
これも青龍山麓にある歌碑。ちなみにこの石は元は陸別小学校の門柱でした。

(資料提供:陸別町関寛翁顕彰会)

(注) この稿は、研究レポート第1集に収録している。長崎医学伝習所時代の「長崎在学日記」の中に、文久元年4月、仲間3人で御崎観音詣でをした貴重な紀行文がある。
なお、HPは紹介していないが、関寛斎は司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。

現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

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現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。

(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。

長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  『長崎談叢』19輯所収

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林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」=『長崎談叢』19輯所収
長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で1泊2日の御崎観音に詣でた。

四月三日 日曜日

‥‥雨降り来る、然れども雨を侵して發足す濱の町に至りてやむ、南風殊に温く熱すること甚だし、戸町峠にて襯衣を去り單物一枚になる、此峠頗る嶮なり東は崎陽を一望し北は
港内の諸島を見る且つ峠上に路を距ること一町許の處に大きなる石峻起立し峠を抜くこと二十間許り殆んど人口の美を奪ふ。
小ヶ倉の入口にて小憩す、右に笠山岳あり此より加能峠にて、やうやう下る五六町にして平地あり、望遠鏡を用ふるに最も佳景なり、直下は小ヶ倉港内の小島眼前に見え、西南は西海側々たり、加能の下り口は海面に張り出し眺望尤もよし、南岸の砲臺或は隠れ或は顕る、西岸に彎あり突出あり。
下りて一彎に出で岩上の奇岩を渡り一の間路を行く、小渚中に小魚あり且つ一つの烏賊を見る同行の人直に入りて刀を以て切て得たり、自ら携へて午飯の料とす。迂路して深堀に出づ、入口に峠あり直に下りて深堀に至る、小港あり荷船四五個あり且つ佐賀侯の船數十艘あり、此の處は佐賀の臣深堀某の居なり、戸數百戸許一の家に至り芥餅を喫す、且つ温暖忍びざるに由て草鞋を取り襟を開き汗を去る、一快を取る後ち行厨を開き且鯛一尾を調へ煮て行厨の料とす、又共に途中に於て獲たる烏賊を供ふ味極めて佳なり。
午後發足す、二十丁許りにして八幡山峠へ上り中程にて黒船を見る、望遠鏡を用ふるに竪に赤白青の旗號あり、午下は殊に峠道ゆへ炎熱蒸すが如く汗を以て單物を濡すに至れり、三十丁計にして蚊焼峠の入口の茶屋に至り、清水に喉をうるをし汗を拭ふ西北は港内にて其西岸は遥に絶え香焼島、マゴメ島、伊王島、高島、遥に松島の瀬戸(高サ六七間ニ柱石相對す)見ゆ、之を相撲の瀬といふ。四郎島、カミノ島、右二島は佐賀の砲臺にして最も
勝る由。蚊焼島の上三十丁ばかりを長人といふ此の處東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり遥に其の中間より肥後を見る。
下りて高濱に至る、此の處漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の處より三崎迄一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚勞し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に觀音堂あり淸人の書にて海天活佛の額あり。三四丁にして脇津(脇岬)に至り蒟蒻屋に百銅を出して鏡鯛を求め鮮肉を喫す頗る妙、郷里を出るの後初めて生鮮の肉を喫し總州にあるが如きを覺ふ、處々蝉鳴を聞く、七時より時々雨ならんとす、夜に入りて大雨となる。

四月四日 晴

雨やむ然れども北風強し、炎熱なし客舎を發し往古蒙古の船此處に破變し化石となり其木板帆柱の形を存すと、然れども潮満ちて見ること能はずと只聞くのみ、西向して海邊を通る此の時蒸汽船を見る、望遠鏡を用ふるに白に丸紅の旗號あり長崎港に向く、此の疾きこと矢の如し、我れ一丁許り行くに船四五丁走る、四五丁にして野母に至る、船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由って只一望のみにて漁家にて喫茶す、此
の處二百戸許り漁師住めり南西に高山あり四五年前には絶えず此の頂上にて望遠鏡を用ひ黒船を見張せしといふ、長崎迄一望中にあり且つよく遠方を見得て殊に景地なり。五ッ半時發足し堂山の西を通り高濱に出て八ッ時蚊焼峠にて行厨を喫し且「ゴロダメシ」と唱ふる麥米豌豆の飯を一椀つゞ喫す、其味頗る妙尚「コッパ飯」と唱へる飯は此處の邊の常食の由、ゴロ飯はサツマ芋を切りて乾し兼て飯に加ふるなりと。
夫より半里許を行きて昨日の道を換へて西方は深堀、東方は長崎道なり、八幡山峠を西に見八郎ヶ岳を東に見る、其の中間と覺ふ八郎岳は九州第八の岳なりと、此の邊第一の高山なり、一農家に憩ひて新茶を味ふ、味最も妙、高低の山路を經て昨日の道と同ふし、加能峠にゆく宿にて小憩す、戸町峠にて新茶を求め家宿の土産の料とす。
黄昏大浦に着し飢あり三人共に一麺店にて三椀づゝ喫し別る、予は前の浴室に至り浴後高禪寺に歸塾す。

(注)この所収文は関寛斎「長崎在学日記」と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、当会の研究レポート第1・2集に収録している。

現在残っている「みさき道」の道塚(12本)の場所・刻面等

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現在残っている「みさき道」の道塚(12本)の場所・刻面等

① 十人町の石段脇
上部はすっかり磨耗していて、刻字不明 地元の話では変体仮名で「みさき道」と刻まれていたという
② 二本松山中(上戸町)
正面「みさき道」 左側面「今魚町」
③ 高比良園芸内(新小が倉)
正面「御崎道」左側面「文政六年葵未二月」 右側面「今魚町」下の部分は土中に埋もれている (1823)
④ 蚊焼西大道
正面「みさき道 今魚町」
⑤ 蚊焼元松尾 
正面「 今魚町」 上部は欠損
⑥ 岳路海水浴場前バス停下
正面「みさき道」 右側面「今魚町」
⑦ 徳道車道三叉路
正面「御嵜ヨリ二里」 右側面「長崎ヨリ五里」 左側面「文政七年申十一月 今魚町」 (1824)
⑧ 野母崎ゴルフ場裏門内
墓石を転用、文字は重複 正面は地蔵彫刻 右側面「右御崎道」 左側面「左川原道」
⑨ 同上道塚の5mほど奥
正面「みさき道 今魚町」 左側面「上 川原道」
⑩ 観音寺の境内石段脇
正面「道塚五拾本」 右側面「天明四年 辰八月吉日 勝山町石工 山下左吉」 左側面「今魚町」(1784 寄進の意味か)
⑪ 脇岬海岸国道上
正面「従是観音道」 左側面「山道十丁」 裏側「元禄十丁丑九月吉日 願主敬建」 (1697)
⑫ 三和「みさき駅」前
正面「みさき道 今魚町」(県養護学校近くにあったのを移設展示)

道塚の種別等による分類

今魚町系  コース①②③④⑤⑨⑫ 岳路⑥ 花崗岩里程⑦ 五拾本⑩  計10本 
異 質   墓石転用 川原道⑧
観音道   花崗岩里程⑪

道塚の刻面がある建立年別
(建立者不明)
元禄十年(1697)⑪ 脇岬海岸国道上     正面「従是観音道」左側面「山道十丁」

(今魚町建立)
天明四年(1784)⑩ 観音寺の境内石段脇   正面「道塚五拾本」左側面「今魚町」
文政六年(1823)③ 高比良園芸内(新小が倉)正面「御崎道」左側面「文政六年葵未二月」右側面「今魚町」
文政七年(1824)⑦ 徳道車道三叉路     正面「御嵜ヨリ二里」右側面「長崎ヨリ五里」左側面「文政七年申十一月 今魚町」

(注) この表は、中島勇氏資料『観音信仰「みさき道」』などを参考に作成した。

現存の外「みさき道」道塚があったとされる地点

次は、現在までの調査で判明した現存する12本の道塚のほか、参考の関係資料または記憶談の聞き取りによって私達が把握している「みさき道」の道塚があったとされる地点である。コース順に並べてみる。一部重複したり、場所誤りも考えられるようだが、資料等のとおりそのまま掲げてみる。

1 石   橋         原田氏「観音信仰と御崎街道」
2 出雲湧き水地点       中島氏「野母半島とみさき道図」説明
3 ダイヤランド 峠付近    蚊焼山村氏記憶談 (三菱地所開発問合せ不明)
4 同 旧地図山頭地点     蚊焼山村氏記憶談 ( 同 )
5 同 旧地図一本松地点    蚊焼山村氏記憶談 ( 同 )
6 平山台上タンク地点     蚊焼桑原氏記憶談
7 平山台三叉路        中島氏「野母半島とみさき道図」説明
8 国道蚊焼入口        蚊焼桑原氏記憶談
9 同上坂の途中        蚊焼桑原氏記憶談
10 同上坂上の平地       原田氏「観音信仰と御崎街道」中島氏「野母半島とみさき道図」説明
11 草積祠の先         蚊焼桑原氏記憶談
12 蚊焼峠推定地点       蚊焼桑原氏記憶談
13 妙道尼信女墓地点      蚊焼桑原氏記憶談
14 堂 山 峠         原田氏「観音信仰と御崎街道」

(コース外)
1 川原前小池裏字池平     明治32年建立 宮崎高崎氏記憶談 三和中央公民館保管中
2 二ノ岳ピーク間       何かの石柱 高浜在住の人の記憶談

水徳尊神石  妙相寺上地蔵堂の脇

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水徳尊神石  妙相寺上地蔵堂の脇

長崎市本河内町妙相寺から上の不動の滝に行く右道脇にある。この石碑を見たとき、大きな上の字は左から読めば「水道神」。普通のは「水神」であり、「水道神」とは、この下流に明治24年、倉田水樋に代わる近代的な上水道として建設された、横浜・函館に次いでわが国3番目の本河内水源池があり、貯水池式ではわが国最初であったので、この水源の神かと一瞬思って、珍しく感じ写真を撮ってみた。

帰って調べると、正体は違った。次のとおり岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊、妙相寺の項25頁に説明があった。
(7)水徳尊神石(地蔵堂の脇)
公園道脇を200mほど登った所にあります。此の石碑は此処より更に石段を80段余り登った不動の滝(現今水量微々)の岩場に据えられていたものが昔日の豪雨等で流出して、此処に祀られたものです。長崎市史の記録を見ると享保2年(1717)第三代毒流が滝付近に東京の亀井戸天満宮に擬した立派な石橋、石段を設けて、天満宮を祀ったので世人も亀井戸天満宮と称したとあります。そして文化11年(1814)第十三代大廣が滝壺の上に水徳神石として祀ったものですが、豪雨で流出し此処に据えられたものです。
(正面)  神 水徳尊神   文化十一甲戌年
道 織津姫命
水 辦才有徳天  三年吉日  野村守平敬白

「みさき道」のコースなどに関する考察  <その2>から

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「みさき道」のコースなどに関する考察  <その2>から

研究レポート第2集『江戸期の「みさき道」−医学生関寛斎日記の推定ルート』は、平成18年4月刊行した。その中からコースの判断にふれた10〜11頁の記述は次のとおり。考察はまったく私見である、関係資料と読み合わせて判断していただきたい。

A 総括的なこと

1 「みさき道」の判断に、どのような文献と地図類があるか
今回の調査は、文久元年(1861)4月3日と4日にかけて、仲間3人で脇岬観音詣でに出かけた長崎医学伝習所生関寛斎の「長崎在学日記」(昭和13年「長崎談叢19輯」の引用文は一部誤りがあることは指摘した)をもとに、彼の記述をなるべく現地や文献で検証することとし、今も残る道塚12本を手がかりに彼ら一行の歩いたルートを推定し、当時の「みさき道」はどうだったか調査したものである。
参考とした関係資料は前レポートに掲げたが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」            佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」               長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕     同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」           同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」  同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」   三和中央公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政6年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。

2 「みさき道」の調査で、これら関係資料はどのような利点があったか
次のような利点があり、「みさき道」の判断をする上で役立った。
(1)晩年の地北海道陸別町資料館が保存する関寛斎「長崎在学日記」の原文写しが、同町の協力によって手に入った。彼は一流の人で、記述は正確であった。
(2)③の佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村の地図は、彼ら一行が歩いた文久元年と同時期に作成され、正確かつ詳細な絵図であった。
(3)④の国土地理院旧版地図は、以前の旧図もあるが測量技術が格段に進歩し、陸軍陸地測量部が正確な地形と道を描いた地図であった。まだ車はなく街道が県道などで表れていた。
(4)今魚町が観音寺境内に天明4年(1784)「道塚五拾本」と刻んだ石柱を残し、街道要所に年代が前後した道塚12本が現存するのは、他街道に見られないことである。
(5)「三和町郷土誌」編さん諸資料に、長崎県立図書館蔵書の明治18年「西彼杵郡村誌」が載せられ、「道路」の項の記述があったので参考となった。

3 「長崎街道」の調査方法は、どんなだったか
「みさき道」の調査方法は、確固とした手法や経過を取っていない。やみくもに歩き街道の道の感じを掴み、資料・地図類が集まり次第、再考しながら積み重ねていったら、何とか結果が出た。街道調査の方法を、最初から最後まで知らなかった。
「長崎街道」の場合、どうだったか。レポート刊行後知ったが、三和公民館に大村史談会「大村史談」のバックナンバーが揃っていた。第50号に総合索引があり、平成3年3月発行第38号「北九州市の長崎街道(一)」に、松尾昌英氏の木屋橋〜小倉間の踏査記録があった。
これによると調査方法は次のとおりであった。

『今回の調査に当っては安永九年(1780)と文化九年(1812)の遠賀郡往還図、生保年間(1644−1647)の豊前六郡図(福岡県史資料第二輯附図)、及筑前國図(福岡県史資料第六輯)、元禄十四年筑前図(1701)(福岡県史資料第八輯)、伊能忠敬測量日記の内文化九年(1812)一月二十七日より二十九日迄の測量記録、明治二十年及明治三十一年より三十三年迄の大日本帝國陸地測量部の図面、昭和十年十月發行の八幡市地図、昭和十三年十一月發行の小倉市地図を参考資料として調査に当った。生保、元禄図及遠賀郡往還図と陸地測量部の図面を照合比較してみると道路の形態は殆んど一致している。又伊能忠敬の測量記録はそのルート上の町名、地名、測量の距離ともほヾ一致することがわかった。
そこで今回、現地調査に当っては陸地測量図を基に調査を進めることにしたのである。
長崎街道は長い歴史の中で幾多の変遷を経たであろうと思うが、陸測図は大体において江戸時代末期の長崎街道とほヾ一致するのではなかろうかと思っている。
将来江戸時代の正確な街道地図が発見された時点では当然修正しなければならない。』

結果的に私たちの「みさき道」の調査方法も、全く同じような史料・地図類を使ってコースを推定していたのである。

川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門  三和町郷土誌から

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川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門  三和町郷土誌から

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊643〜644頁の記述は次のとおり。

川原を訪れた長崎奉行牛込忠左衛門
川原の池を“竜池”という。ここの池は古くから大池・小池と言っていたようであるが、竜池とはいつごろから言われた呼称であろう。寛永(1624〜44)に創立の法音寺は竜池山法音寺というが、古くは河原山竜池院であったという。とにかくそのころから竜池という呼称は用いられていたものであろう。
長崎奉行牛込忠左衛門は奉行として珍らしく川原を訪れている。延宝六年(1678)のことである。
同年二月には野母と樺島、四月に川原に行き池を見分している。奉行の巡検とあって、迎える村々では大事であったに違いない。ここでも今村・森両家をはじめ有志の人々に迎えられたと思われる。いろいろと下にもおかぬ歓待のもてなしであったろうが特に池を眺めて竜女の伝説など興味深く聴いたことは想像される。長崎でも“鳴滝”や“梅香崎”などの雅名を与える牛込奉行であるから“竜池”という言葉を聴いて大へん喜んだことがうかがえる。同奉行はかねてより長崎聖堂の南部草寿、大通詞彭城東閣や林道栄などの学者や文人墨客と深く交わり、学芸に秀でていた。
牛込奉行は十か年長崎奉行としてその職にあり、その間の事蹟としては、内にあっては、
延宝元年 ○倉田水樋(飲料・防火用水)造成の本五島町大名倉田氏の「水樋掛」世襲の許可
○立山役所を設置
延宝四年 ○立山に聖堂を再興(寛文大火で焼失のもの)
また、巡検などは、
延宝二年 ○野母樺島へ捕鯨の見分
延宝四年 ○島原侯と各所を巡視 ○深堀領主鍋島志摩の鹿狩に参加
延宝六年 ○野母、樺島と川原の池を検分
など、大へん多角的な行動をしている。牛込奉行の墓は東京新宿宗参寺にある。
寛文(1661〜73)以降も歴代奉行は随時近村へ迎えられ出向くこともあったようだが記録されているものは少ない。しかし、将軍交替時の幕府巡検使はともかく、文化(1804〜18)ごろからは幕末まで異国船取締りの面もあり、毎年のように野母など巡見を行い、港内警備を留意している。  (編 集 子)

(注) この資料のとおり、各村や遠見番所・台場などの巡見は、幕府側、佐賀藩とも随時あっているようであるが、経路の記録はない。

野母半島か長崎半島か  野母崎町郷土誌から

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野母半島か長崎半島か  野母崎町郷土誌から

野母崎町「野母崎町郷土誌」昭和61年刊331〜332頁の記述は次のとおり。「みさき道」に関係し、地元にとっては関心のあることなので、参考のため収録した。

5 野母半島か長崎半島か
日本国語大辞典第十六巻によると、半島とは海に向って長く突き出た陸地といい、小さいものは岬・崎・鼻などと呼ばれる。1871(明治4)年の中村正直訳「西国立志篇」で「ぺニシンシュラ」を訳して「半島」というから、半島という言葉は明治になってからできた言葉である。1880(明治13)年刊の「長崎県地理小誌(長崎県師範学校編)」には「半島」という言葉はでてくるが、○○半島という固有の名称はない。野母半島は野母崎となっている。1885(明治18)年刊の同名本にも野母崎となっている。1901(明治34)年刊の「増補大日本地名辞書(吉田東伍著・富山房発行)」では彼杵半島に含めて、その南支(南に枝分かれした)の西南端を野母崎というとある。その中に「水路志云」として−半島の南西端といっている。なお、別の本では「水路志」や1911(明治44)年刊の「大日本地誌」(山崎直方・佐藤伝蔵編)では「長崎半島」を使っているという。全国的見地からは長崎半島の名称の方が早いように思われるが、大正時代から昭和20年代までは地元でも、全国版でも野母半島の名称が卓越して定着した。昭和初期の「岩波地理講座」や昭和8年刊の「長崎県之地理」には野母半島として登場し、ことに学校教育での野母半島の普及が著しい。
ところが、この50年近くの野母半島の普及と定着を無視して、昭和29年建設省国土地理院が全国の自然地域(山地・平野・諸島・半島など)の名称を統一したことで論議が始まった。
昭和29年刊の「NHKブックス・地名を考える(山口恵一郎著)」によると、国土地理院は多くの資料を検討して「長崎半島」に決定したのだといい、さらに県名とか都市名とかで長崎がよく知られているので「長崎半島」と呼ぶことにしたともいっている。そしてそれは一定の基準といっているから、強制されるものではないらしい。ところが、昭和33年になると文部省が「地名の呼び方と書き方」で、学校用の検定教科書に「長崎半島」と指定したので、「野母半島」は消滅期を迎えるのである。
国土地理院が他所者だから名付けるとき、有名な長崎市の近くの半島である「長崎半島」の方が、全国的に解り易いと考えたろうが、地元では50年近く聞きなれてきた野母崎に至る突き出した半島という「野母半島」の方に愛着があるだろう。県は国土地理院が「長崎半島」との基準を示した翌年、昭和30年野母半島県立公園を指定している。これは将来、名称変更をしない限り「野母半島」という名称の化石となる。
昭和38年9月28日付朝日新聞日曜版“旅・野母半島”では、「つい最近、小・中学校の教科書は“野母半島”という名前を“長崎半島”に変えたというが、千三百年前、紀州熊野から流れついた漁師の妻が開いたところから、“野の母の浦”といわれるようになったのが起源という“野母半島”の方がぴったりくるような気がした。」と書く。昭和39年9月2日の朝日新聞の読者欄には「建設省の長崎半島改称と県の野母半島県立公園との矛盾をつく」発言がのり、これに対して9月8日文部省主任教科書調査官が回答する。次いで9月10日再び読者からの投書、9月19日に国土地理院が回答し、朝日新聞の打ち切り宣言で終幕した。
それから20年余り経った今、ほとんどの書籍や辞書から野母半島がなくなり、長崎半島が優位に立っている。まだ「長崎(野母)半島」としている本が目につくが、かくて将来、野母半島の名称は歴史的地名として残るばかりの運命にある。        (田中敏朗:記)

昔の三和町「陸上の交通」  三和町郷土誌から

昔の三和町「陸上の交通」  三和町郷土誌から

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。

第一章 交通・運輸  第一節 交  通
二 陸上の交通
大正七年(1918)の『蚊焼村郷土誌』に「本村ハ各種ノ産業、盛ナラズ、殊二、山岳多キ故、陸上ノ交通便ナラズ・・。国県道ノ通ズルナク、里道モ一般ニ不完全ナリ」とあり、
『為石村郷土誌』には「道路ノ主要ナルモノハ、(1)蚊焼道、(2)長崎街道(布巻、平山ノ旧道ヲ通ジテ県道ニ接続)、(3)深堀道、(4)川原—野母脇岬街道、(五)茂木街道トス、何レモ原始時代ニ属シ、茂木街道甚ダシ。村内亦頗ル、不完全ナリ。従ツテ貨客ノ通運不便ヲ極メ貨物ハ牛背ニアラズンバ人頭ニ依ル。」とある。また『川原村郷土誌』には、「本村ハ野母半島ノ裏辺隅ニアリ道路険悪ニシテ車馬通ゼズ、且ツ船舶ノ碇泊スルニ不便ナルヲ以テ、発達セズ。里道ハ為石、高浜、脇岬トノ三方ニ通ズレドモ人馬ノ交通ハ為石方面ノミニシテ他ハ稀ナリ。」と記されており、三村共、長崎への新道開通を念願していたようである。大正三年四月には、大川橋(工費百九拾円)を、完成させ、また大正六年五月までに蚊焼道に三つの橋(工費約百七拾円)を架橋している。何れも、大部分は寄附金を仰いで築造されている。これらはまさしくそれの現れであろう。古人は、皆、自らの手で、この不便さを解消するために努力されたのである。
昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川 原 道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(ニ)蚊 焼 道
岩崎から三和中学校前の川渕を通り、とんどんの坂を越え、布巻と蚊焼の分かれ道(兵隊の分かれ道という)を通り、ここに祠がある。栄上のま下で大川を渡り(渡し石がある)、中央公民館の下の道を通り、相撲墓の坂を下り、蚊焼の町に入る約四キロの道。
大正の初年、大久保さんのシビ網にかかった一〇〇斤(六〇瓩)のカジキを二人で組んで、女たちが頭上で運搬した。為石の浜から、蚊焼の船着き場まではこび、朝四時から五時ごろの船に積みこんで長崎に送った。日傭賃は一人五〇銭だった。大工が一・二円の日当の時代のことである。
この道は、日用品を牛にウセて為石に運ぶ道で、大切な生活路線であった。
(三)布 巻 道
兵隊の分かれ道から右手の山道に入る。ここから布巻を経て長崎まで約四里(一六キロ)の道程であった。日がえりが出来た。大正の初め野母商船がかようようになるまで、長崎へ行く主要な道であった。
兵隊の分かれ道というのは、この辺まで入営兵を見送っていたところであろう。
(四)藤田尾(とうだお)道
六軒から浜川を渡り、郷方の山の中の山道を越えていく。
(五)干々(ちぢ)道
六軒を通り、干々木場の上に出て干々に下る山道と、布巻から寺岳の麓、二軒家の境を越え、づづやの滝に出て、その辺から干々に下る道とふたつあった。
(六)深 堀 道
蚊焼から大籠に出て深堀に下る道をとおれば約一里(四キロ)。布巻、平山、竿浦をとおり、深堀に出る道は約一里半(六キロ)といっていた。
全住民の念願叶って、長崎への県道(現在の主要地方道、長崎野母港線)が完成したのは昭和七年(1932)である。昭和九年、戸町—為石間にバスの運行が始まった。初めのころは戸町発着で、その先は電鉄の汽船を利用していたが、このバスも、まもなく長崎まで行くようになった。
バスの便数が増え、トラック輸送が盛んに成り、三つの村は急変し、その文化、社会の発展に絶大なる影響を与えた。こうして、長崎半島の幹線道路が開通し、終戦後の復興と、相俟って、昭和二十六年ごろより貨物トラック、三輪車が、町内にも導入され、荷車、リヤカー、牛馬車などが急激に増え始めるにつれて、道路の利便性、必要性を痛感した住民は、道作りに専念するようになっていった。(略)

※なお、本郷土誌巻末1340頁「郷土誌発刊に当たって」の中に、次の記述があり書き留める。
「長崎半島の尾根沿いに蚊焼から川原へと旧街道(殿さん道)を歩くと、ビックーさんのお墓やみさき道の道標をみることができますが、かって脇岬の観音詣での人々や、検地等で行き来した代官等の様子がしのばれます。」

(注) 明治・大正・昭和前期までの三和町の海上、陸上の交通状況がよくわかる。惜しまれるのは、江戸期の「みさき道」の記述がないことである。そういった記録はないのだろうか。
『川原村郷土誌』にある「高浜」「脇岬」へ通じる道も、推定するだけである。

なお、ここでふれている引用資料「橘湾の漁労習俗」の本は、香焼地区公民館にあった。借り出しがなくすでにお蔵入りしていて、3階の倉庫から探してもらうのに手をわずらわせた。
これは昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。文化庁の指導と補助を受け、長崎県における内湾水域の一つである橘湾沿岸の漁村に残存する漁労習俗に関して、記録・保存を図るため調査は実施された。海女(海士)・大村湾につぐ第3回目であった。
諸条件を考慮し、県内4地点が調査対象地域となり、池下など他の3地点とともに「為石・川原・宮崎」地域が選ばれた。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の道の記述はなかった。