野母半島か長崎半島か  野母崎町郷土誌から

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野母半島か長崎半島か  野母崎町郷土誌から

野母崎町「野母崎町郷土誌」昭和61年刊331〜332頁の記述は次のとおり。「みさき道」に関係し、地元にとっては関心のあることなので、参考のため収録した。

5 野母半島か長崎半島か
日本国語大辞典第十六巻によると、半島とは海に向って長く突き出た陸地といい、小さいものは岬・崎・鼻などと呼ばれる。1871(明治4)年の中村正直訳「西国立志篇」で「ぺニシンシュラ」を訳して「半島」というから、半島という言葉は明治になってからできた言葉である。1880(明治13)年刊の「長崎県地理小誌(長崎県師範学校編)」には「半島」という言葉はでてくるが、○○半島という固有の名称はない。野母半島は野母崎となっている。1885(明治18)年刊の同名本にも野母崎となっている。1901(明治34)年刊の「増補大日本地名辞書(吉田東伍著・富山房発行)」では彼杵半島に含めて、その南支(南に枝分かれした)の西南端を野母崎というとある。その中に「水路志云」として−半島の南西端といっている。なお、別の本では「水路志」や1911(明治44)年刊の「大日本地誌」(山崎直方・佐藤伝蔵編)では「長崎半島」を使っているという。全国的見地からは長崎半島の名称の方が早いように思われるが、大正時代から昭和20年代までは地元でも、全国版でも野母半島の名称が卓越して定着した。昭和初期の「岩波地理講座」や昭和8年刊の「長崎県之地理」には野母半島として登場し、ことに学校教育での野母半島の普及が著しい。
ところが、この50年近くの野母半島の普及と定着を無視して、昭和29年建設省国土地理院が全国の自然地域(山地・平野・諸島・半島など)の名称を統一したことで論議が始まった。
昭和29年刊の「NHKブックス・地名を考える(山口恵一郎著)」によると、国土地理院は多くの資料を検討して「長崎半島」に決定したのだといい、さらに県名とか都市名とかで長崎がよく知られているので「長崎半島」と呼ぶことにしたともいっている。そしてそれは一定の基準といっているから、強制されるものではないらしい。ところが、昭和33年になると文部省が「地名の呼び方と書き方」で、学校用の検定教科書に「長崎半島」と指定したので、「野母半島」は消滅期を迎えるのである。
国土地理院が他所者だから名付けるとき、有名な長崎市の近くの半島である「長崎半島」の方が、全国的に解り易いと考えたろうが、地元では50年近く聞きなれてきた野母崎に至る突き出した半島という「野母半島」の方に愛着があるだろう。県は国土地理院が「長崎半島」との基準を示した翌年、昭和30年野母半島県立公園を指定している。これは将来、名称変更をしない限り「野母半島」という名称の化石となる。
昭和38年9月28日付朝日新聞日曜版“旅・野母半島”では、「つい最近、小・中学校の教科書は“野母半島”という名前を“長崎半島”に変えたというが、千三百年前、紀州熊野から流れついた漁師の妻が開いたところから、“野の母の浦”といわれるようになったのが起源という“野母半島”の方がぴったりくるような気がした。」と書く。昭和39年9月2日の朝日新聞の読者欄には「建設省の長崎半島改称と県の野母半島県立公園との矛盾をつく」発言がのり、これに対して9月8日文部省主任教科書調査官が回答する。次いで9月10日再び読者からの投書、9月19日に国土地理院が回答し、朝日新聞の打ち切り宣言で終幕した。
それから20年余り経った今、ほとんどの書籍や辞書から野母半島がなくなり、長崎半島が優位に立っている。まだ「長崎(野母)半島」としている本が目につくが、かくて将来、野母半島の名称は歴史的地名として残るばかりの運命にある。        (田中敏朗:記)