昔の三和町「陸上の交通」 三和町郷土誌から
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。
第一章 交通・運輸 第一節 交 通
二 陸上の交通
大正七年(1918)の『蚊焼村郷土誌』に「本村ハ各種ノ産業、盛ナラズ、殊二、山岳多キ故、陸上ノ交通便ナラズ・・。国県道ノ通ズルナク、里道モ一般ニ不完全ナリ」とあり、
『為石村郷土誌』には「道路ノ主要ナルモノハ、(1)蚊焼道、(2)長崎街道(布巻、平山ノ旧道ヲ通ジテ県道ニ接続)、(3)深堀道、(4)川原—野母脇岬街道、(五)茂木街道トス、何レモ原始時代ニ属シ、茂木街道甚ダシ。村内亦頗ル、不完全ナリ。従ツテ貨客ノ通運不便ヲ極メ貨物ハ牛背ニアラズンバ人頭ニ依ル。」とある。また『川原村郷土誌』には、「本村ハ野母半島ノ裏辺隅ニアリ道路険悪ニシテ車馬通ゼズ、且ツ船舶ノ碇泊スルニ不便ナルヲ以テ、発達セズ。里道ハ為石、高浜、脇岬トノ三方ニ通ズレドモ人馬ノ交通ハ為石方面ノミニシテ他ハ稀ナリ。」と記されており、三村共、長崎への新道開通を念願していたようである。大正三年四月には、大川橋(工費百九拾円)を、完成させ、また大正六年五月までに蚊焼道に三つの橋(工費約百七拾円)を架橋している。何れも、大部分は寄附金を仰いで築造されている。これらはまさしくそれの現れであろう。古人は、皆、自らの手で、この不便さを解消するために努力されたのである。
昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川 原 道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(ニ)蚊 焼 道
岩崎から三和中学校前の川渕を通り、とんどんの坂を越え、布巻と蚊焼の分かれ道(兵隊の分かれ道という)を通り、ここに祠がある。栄上のま下で大川を渡り(渡し石がある)、中央公民館の下の道を通り、相撲墓の坂を下り、蚊焼の町に入る約四キロの道。
大正の初年、大久保さんのシビ網にかかった一〇〇斤(六〇瓩)のカジキを二人で組んで、女たちが頭上で運搬した。為石の浜から、蚊焼の船着き場まではこび、朝四時から五時ごろの船に積みこんで長崎に送った。日傭賃は一人五〇銭だった。大工が一・二円の日当の時代のことである。
この道は、日用品を牛にウセて為石に運ぶ道で、大切な生活路線であった。
(三)布 巻 道
兵隊の分かれ道から右手の山道に入る。ここから布巻を経て長崎まで約四里(一六キロ)の道程であった。日がえりが出来た。大正の初め野母商船がかようようになるまで、長崎へ行く主要な道であった。
兵隊の分かれ道というのは、この辺まで入営兵を見送っていたところであろう。
(四)藤田尾(とうだお)道
六軒から浜川を渡り、郷方の山の中の山道を越えていく。
(五)干々(ちぢ)道
六軒を通り、干々木場の上に出て干々に下る山道と、布巻から寺岳の麓、二軒家の境を越え、づづやの滝に出て、その辺から干々に下る道とふたつあった。
(六)深 堀 道
蚊焼から大籠に出て深堀に下る道をとおれば約一里(四キロ)。布巻、平山、竿浦をとおり、深堀に出る道は約一里半(六キロ)といっていた。
全住民の念願叶って、長崎への県道(現在の主要地方道、長崎野母港線)が完成したのは昭和七年(1932)である。昭和九年、戸町—為石間にバスの運行が始まった。初めのころは戸町発着で、その先は電鉄の汽船を利用していたが、このバスも、まもなく長崎まで行くようになった。
バスの便数が増え、トラック輸送が盛んに成り、三つの村は急変し、その文化、社会の発展に絶大なる影響を与えた。こうして、長崎半島の幹線道路が開通し、終戦後の復興と、相俟って、昭和二十六年ごろより貨物トラック、三輪車が、町内にも導入され、荷車、リヤカー、牛馬車などが急激に増え始めるにつれて、道路の利便性、必要性を痛感した住民は、道作りに専念するようになっていった。(略)
※なお、本郷土誌巻末1340頁「郷土誌発刊に当たって」の中に、次の記述があり書き留める。
「長崎半島の尾根沿いに蚊焼から川原へと旧街道(殿さん道)を歩くと、ビックーさんのお墓やみさき道の道標をみることができますが、かって脇岬の観音詣での人々や、検地等で行き来した代官等の様子がしのばれます。」
(注) 明治・大正・昭和前期までの三和町の海上、陸上の交通状況がよくわかる。惜しまれるのは、江戸期の「みさき道」の記述がないことである。そういった記録はないのだろうか。
『川原村郷土誌』にある「高浜」「脇岬」へ通じる道も、推定するだけである。
なお、ここでふれている引用資料「橘湾の漁労習俗」の本は、香焼地区公民館にあった。借り出しがなくすでにお蔵入りしていて、3階の倉庫から探してもらうのに手をわずらわせた。
これは昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。文化庁の指導と補助を受け、長崎県における内湾水域の一つである橘湾沿岸の漁村に残存する漁労習俗に関して、記録・保存を図るため調査は実施された。海女(海士)・大村湾につぐ第3回目であった。
諸条件を考慮し、県内4地点が調査対象地域となり、池下など他の3地点とともに「為石・川原・宮崎」地域が選ばれた。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の道の記述はなかった。