昔の三和町「海上の交通」  三和町郷土誌から

昔の三和町「海上の交通」  三和町郷土誌から

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。

第一章 交通・運輸  第一節 交  通
一 海上の交通
明治、大正時代までの、三和町の交通は、海上が主であった。長崎港を中心に栄えた長崎市街地との交通を望み、三村共、急傾斜地の多い長崎半島にあって、海辺近くの僅かな平坦地に集落があり、鉄道は無く、道路も里道しかなく、険わしく、遠いとあれば当然である。
長崎港外湾部に位置する蚊焼村は、その地理的条件からか、海上の交通が早く発達し、明治三十年ごろから、蒸気船、帆船が、行き来し、かなり、便利であったようである。三山汽船野母航路の寄港地になっており毎日四往復あり、長崎まで一時間、(帆船では二時間半)で行けた。
野母航路の寄港地は、長崎(大波止)から小ヶ倉、土井ノ首、深堀、香焼、蚊焼、高浜(野々串)、野母であった。蚊焼の場合は、防波堤(現在の西防波堤、明治四十五年に一部築造)が出来た後も、桟橋がなかったため、艀(はしけ)が使われた。艀の発着地は村中の浜で、しけの時は防波堤から出された。また、この汽船も、しけが強くなると香焼どまりとなり、深堀・蚊焼間は、陸路を歩いた。季節風(北西)が吹くころには欠航が多かった。
渡海船は、長崎行きと高島行きが毎日一往復した。前者を「ナガサキガヱー」、後者を「タカシマガヱー」といい、大切な物資の運搬船であった。行きは、農産物が主で、帰りは、長崎行きの場合は、商店に届ける生活用品が運ばれた。この渡海船は村の許可で行われ、営業者は入札で決めた。長崎行きの渡海船は終戦後中止されたが、高島行きの渡海船は現在に至るまで続いている。この渡海船が、動力船になったのは、昭和の初期で、それまでは、風力や人力にたよっていた。便乗の人達も櫓を槽ぐ習わしであり、農作物を販売に行く主婦達も、交代で手伝った。なお、高島・端島(軍艦島)・安保・長浜(香焼)などの炭坑や、工場に行く日雇人夫を運ぶ運搬船も出された。これは「ブカタ舟」といい、午前六時出航し、帰港するのは午後六時ごろであった。
為石村は、現在の役場前から三和中学校を経て、とんとん道の里道を通り蚊焼に出て、前記のような船舶を利用しての、長崎との交易が主であった。他に、五島の富江、女島、天草の富岡、野母の脇岬、樺島との交易もあったが、随時漁船、薪船などが出入りする外は、寂漠としていた。農作物などの出荷に、必要に応じ臨時雇船を利用していた時期もあった。また漁獲物は直接出漁先の五島の富江、天草の富岡などに売さばいていた。川原村も里道を利用し、為石を通り蚊焼に出ての船舶の利用が主であった。外は農産物を樺島、長崎方面に出す為、臨時船を仕立てて運搬していたが、これも稀であり、長崎方面には野母崎回りすることもあった。
昭和九年(1934)に戸町—為石間にバスが通うようになって、海上の交通は、衰えていった。