長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  『長崎談叢』19輯所収

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林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」=『長崎談叢』19輯所収
長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で1泊2日の御崎観音に詣でた。

四月三日 日曜日

‥‥雨降り来る、然れども雨を侵して發足す濱の町に至りてやむ、南風殊に温く熱すること甚だし、戸町峠にて襯衣を去り單物一枚になる、此峠頗る嶮なり東は崎陽を一望し北は
港内の諸島を見る且つ峠上に路を距ること一町許の處に大きなる石峻起立し峠を抜くこと二十間許り殆んど人口の美を奪ふ。
小ヶ倉の入口にて小憩す、右に笠山岳あり此より加能峠にて、やうやう下る五六町にして平地あり、望遠鏡を用ふるに最も佳景なり、直下は小ヶ倉港内の小島眼前に見え、西南は西海側々たり、加能の下り口は海面に張り出し眺望尤もよし、南岸の砲臺或は隠れ或は顕る、西岸に彎あり突出あり。
下りて一彎に出で岩上の奇岩を渡り一の間路を行く、小渚中に小魚あり且つ一つの烏賊を見る同行の人直に入りて刀を以て切て得たり、自ら携へて午飯の料とす。迂路して深堀に出づ、入口に峠あり直に下りて深堀に至る、小港あり荷船四五個あり且つ佐賀侯の船數十艘あり、此の處は佐賀の臣深堀某の居なり、戸數百戸許一の家に至り芥餅を喫す、且つ温暖忍びざるに由て草鞋を取り襟を開き汗を去る、一快を取る後ち行厨を開き且鯛一尾を調へ煮て行厨の料とす、又共に途中に於て獲たる烏賊を供ふ味極めて佳なり。
午後發足す、二十丁許りにして八幡山峠へ上り中程にて黒船を見る、望遠鏡を用ふるに竪に赤白青の旗號あり、午下は殊に峠道ゆへ炎熱蒸すが如く汗を以て單物を濡すに至れり、三十丁計にして蚊焼峠の入口の茶屋に至り、清水に喉をうるをし汗を拭ふ西北は港内にて其西岸は遥に絶え香焼島、マゴメ島、伊王島、高島、遥に松島の瀬戸(高サ六七間ニ柱石相對す)見ゆ、之を相撲の瀬といふ。四郎島、カミノ島、右二島は佐賀の砲臺にして最も
勝る由。蚊焼島の上三十丁ばかりを長人といふ此の處東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり遥に其の中間より肥後を見る。
下りて高濱に至る、此の處漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の處より三崎迄一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚勞し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に觀音堂あり淸人の書にて海天活佛の額あり。三四丁にして脇津(脇岬)に至り蒟蒻屋に百銅を出して鏡鯛を求め鮮肉を喫す頗る妙、郷里を出るの後初めて生鮮の肉を喫し總州にあるが如きを覺ふ、處々蝉鳴を聞く、七時より時々雨ならんとす、夜に入りて大雨となる。

四月四日 晴

雨やむ然れども北風強し、炎熱なし客舎を發し往古蒙古の船此處に破變し化石となり其木板帆柱の形を存すと、然れども潮満ちて見ること能はずと只聞くのみ、西向して海邊を通る此の時蒸汽船を見る、望遠鏡を用ふるに白に丸紅の旗號あり長崎港に向く、此の疾きこと矢の如し、我れ一丁許り行くに船四五丁走る、四五丁にして野母に至る、船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由って只一望のみにて漁家にて喫茶す、此
の處二百戸許り漁師住めり南西に高山あり四五年前には絶えず此の頂上にて望遠鏡を用ひ黒船を見張せしといふ、長崎迄一望中にあり且つよく遠方を見得て殊に景地なり。五ッ半時發足し堂山の西を通り高濱に出て八ッ時蚊焼峠にて行厨を喫し且「ゴロダメシ」と唱ふる麥米豌豆の飯を一椀つゞ喫す、其味頗る妙尚「コッパ飯」と唱へる飯は此處の邊の常食の由、ゴロ飯はサツマ芋を切りて乾し兼て飯に加ふるなりと。
夫より半里許を行きて昨日の道を換へて西方は深堀、東方は長崎道なり、八幡山峠を西に見八郎ヶ岳を東に見る、其の中間と覺ふ八郎岳は九州第八の岳なりと、此の邊第一の高山なり、一農家に憩ひて新茶を味ふ、味最も妙、高低の山路を經て昨日の道と同ふし、加能峠にゆく宿にて小憩す、戸町峠にて新茶を求め家宿の土産の料とす。
黄昏大浦に着し飢あり三人共に一麺店にて三椀づゝ喫し別る、予は前の浴室に至り浴後高禪寺に歸塾す。

(注)この所収文は関寛斎「長崎在学日記」と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、当会の研究レポート第1・2集に収録している。