現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項
1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。
(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。