長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像  (北海道陸別町HPから)

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長崎医学伝習所生「関寛斎」の人物像 (北海道陸別町HPから)

陸別町(注 北海道足寄郡 阿寒湖近くにある)開拓の祖とされる関寛斎(幼名吉井豊太郎、寛<ゆたか>とも)は、天保元年(1830年)に現在の千葉県東金市に生まれました。生後、関俊輔(素寿と号して、私塾製錦堂を主宰した儒学者)の養子となり、関を名乗ります。
寛永元年、18歳の時に佐倉にあった順天堂(佐倉順天堂)に入門し、佐藤泰然(さとうたいねん)の元で医学を学びます。そして寛永5年(22歳)に前之内村で仮開業するとともに、この年の12月に君塚あいと結婚しました。仮開業を行ったとは言え、順天堂を完全に離れたわけではなく修行を続けていました。その後、仮開業から4年たった安政3年2月に銚子で開業し、医者として本格的な一歩を踏み出しました。

寛斎に転機が訪れたのは、豪商である浜口吾陵(ヤマサ醤油の当主)の知遇を得てからでした。まず、彼の勧めにより江戸に出て伊東玄朴らの指導を受けてコレラの予防研究を行い、その後に彼の後援を得て長崎に留学しました。(30歳頃)
長崎医学伝習所では、泰然の子である松本良順(後の幕府筆頭医・維新後初代陸軍医総監)らと同じくオランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。この伝習所は松本良順が中心となって設立されたもので、寛斎は63番目の弟子でした。この時の寛斎の見聞は「長崎在学日記」に詳細に記されていますが、医師として医療活動を行った傍らオランダ料理を食べたりワインを飲んでみたというような記録も残っています。またこの間に勝海舟が艦長の咸臨丸の補欠医官も勤めました。

足かけ2年の長崎留学を終えて、文久2年に再び銚子に戻った寛斎は、その年に順天堂時代の同門の推薦により阿波徳島藩主蜂須賀斉裕の国詰侍医として招聘されます。蜂須賀斉裕は将軍家からの養子でしたが、開明的な思想の持ち主だったようです。しかし養子という身で藩政から遠ざけられ、強度のノイローゼになっていました。寛斎は誠意ある診察を行い斉裕からも強い信頼を受けました。
さて、時は幕末。混沌とした中、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発します。実はこの戦いが始まった3日後に藩主斉裕が急死してしまいます。寛斎は典医の辞職を申し出ますが、斉裕の後を継いだ茂韶(もちあき)はこれを許しませんでした。
茂韶は倒幕に参加する決意をして自ら兵を率いて官軍と合流しました。寛斎も軍医としてこれに従い、大阪から海路江戸城に入城します。

そこで突如寛斎に神田三崎町の講武所に野戦病院を開設するよう総督府令が下りました。これは江戸に向かう時に同行していた官軍軍防事務判事である大村益次郎が寛斎の実力を買ったためだったようです。江戸・上野で挙兵した彰義隊の鎮圧に参加し、多くの兵士の命を救ったという事で時の官軍総参謀である西郷隆盛より激賞されています。
この功績により、奥羽戦争時に開設された奥羽出張病院の頭取として東北に赴任します。この時の寛斎の治療スタンスは敵・味方違わず怪我人は全て請け負うという、今で言う赤十字の理念に通ずる考え方で多くの患者を治療したとされています。この時の模様は「奥羽出張病院日記」に詳しく記述されています。

官軍に参加した中堅から幹部のほぼ全員が新政府で要職を占める中、寛斎は奥羽戦争の終結を待って徳島に戻ります。そして明治2年徳島藩医学校を創立し、更に徳島藩病院を開設、寛斎は院長に就任します。
その後、短期間ながら海軍省に出仕し、甲府山梨院長に転任しますが、2年ほどで徳島に戻り、明治7年に現在の徳島市城東高校付近で開業します。
徳島での開業医・寛斎は「赤ヒゲ」的な活動をした事が記録に残っています。貧しい者からは代金を得ず、富める者からはきちんと頂く。しかし自身は質素を旨とした生活だったようです。また、折に触れて蜂須賀家の墓域である眉山に登り、若くして亡くなった蜂須賀斉裕の墓所を訪れていました。

こうして、一応のところ功成り名を遂げた寛斎が北海道移住を 公表したのは、72歳の時だったと言います。既にこの時、長男である又一は札幌農学校(北海道大学の前身)で学び「十勝国牧場設計」という論文を著した後でした。斗満地区(現在の陸別町の他、足寄町、本別町の一部を含む)の広大な土地を払い下げられた寛斎は、現在の陸別町関に入植し、関農場を開きました。
陸別という土地は一から拓くには大変困難な土地柄でした。思うように作物が実らず、疫病で牛馬を多数失った事もありました。それにうち克ったのは、寛斎の「農場を拓く」という強い意志と、又一の「アメリカ流大規模農場」への夢だったと思います。しかしその二人の意思と夢の微妙な違いが悲劇となってしまいました。
寛斎は農場を拓き、それを小作人(農場で働く従業員)に分け与えて自作農を育てようという考えでした。一方で又一はアメリカ流の大規模農業をめざし、スケールメリットを求めたのです。それが一つの要因となり、寛斎は自ら命を絶ったのでした。享年83歳でした。

医師としての寛斎の業績としては銚子時代における種痘が挙げられます。かって難病であった天然痘は種痘を施すことで防ぐことができるという知識が日本に入ってまだ間もない頃の事でしたが、寛斎は銚子で積極的にこれを推進しました。また、著書「命の洗濯」では海水浴と登山を奨励した他、1年足らずの甲府時代は梅毒検査を協力に推進したという記録も残っています。北海道に渡ってからは一旦医籍を返上したのですが、医師がいないという状況を見たせいか、復活させて時折診療に当たったようです。

加えて、文化人としても寛斎は当代一流で多くの文化人、知識人と交流がありました。中でも明治時代の文豪徳富蘆花との交流は有名で、その著書「みみずのたはこと」では一章を割いてその関わりを著述している他、二人の間に交わされた手紙が多数残っています。寛斎自身も前述した「長崎在学日記」に代表されるように非常にこまめな人物で、多くの手紙と著作、日記が残っています。趣味の歌は、「白里」と号して約300首が残っています。「白里」の意味は、その出身「九十九里」を示したもので、「百里」から「一」を引いて白里としたそうです。
寛斎の足跡は、陸別駅に併設されている関寛斎資料館でたどる事ができます。また、町内には歌碑、顕彰碑が多数建立されています。

「忍」 忍びてもなお忍ぶには祈りつつ誠をこめて更に忍ばん 八十三老 白里
町内青龍山麓にある顕彰碑

壮年者に示す
いざ立てよ 野は花ざかり今よりは 実の結ぶべき 時は来にけり 八十二老 白里
これも青龍山麓にある歌碑。ちなみにこの石は元は陸別小学校の門柱でした。

(資料提供:陸別町関寛翁顕彰会)

(注) この稿は、研究レポート第1集に収録している。長崎医学伝習所時代の「長崎在学日記」の中に、文久元年4月、仲間3人で御崎観音詣でをした貴重な紀行文がある。
なお、HPは紹介していないが、関寛斎は司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な主人公である。