土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

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土井首の鹿尾川をどうして渡ったか

土井首中学校同窓会誌「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」寺井房夫編 東京福田はる刊 平成13年3月発行の19〜20頁の中の記述は次のとおり。編者が土井首大山祗神社前の鹿尾川「ため」の地点を、「その昔、長崎への街道の渡しであったという」としている。

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」

大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。

『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川)等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

同じ記述は、角川書店「日本地名大辞典 42長崎県」や熊弘人著「長崎市わが町の歴史散歩 (1)東・南部」の「古道町」の項にあり、「渡し」と記して誤解を生じやすい。書いている場所は同じようでも、当時この地点は、いわゆる舟の「渡し」でなく、飛び石を踏んで渡った「渡り」なのである。関寛斎日記は「下リテ一湾二出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク」と記す。

土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。明治34年測図国土地理院旧版地図も「渡渉所」。上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片はまだ川底に平らな一部が残っている。

鹿尾川はどの地点をどうして渡ったか。主街道の最重要なポイントでありながら、諸説や刊行本の記述がある。前述のほかに長崎歴史文化博物館蔵、上の写真の文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」(小ヶ倉・土井首部分)と次の史料を掲げるので、参考としていただきたい。

庶務課史誌挂事務簿 「西彼杵郡村誌」第一 明治18年5月

土井首村            61〜66頁
川 鹿ノ尾川渡瀬 縣道二属ス鹿尾川ノ下流字法城方(放生がた磯道団地)二アリ径凡十間許水間ノ僵石(堰石せきいしか)ヲ踏テ以テ渡ル
柳渡シ    村ノ西字磯道ノ海岸二属シ渡舟一艘アリ北小ヶ倉村二渡航スル便路二シ直径凡二百間余私渡
深堀渡シ   村ノ西大迫ノ海岸二属シ渡舟三艘アリ南深堀村二渡航スル便路二シ海上凡半里許私渡
道 路 街道筋  縣道に属ス村ノ北小ヶ倉村界字古道(ダイヤランド3丁目)ヨリ入リ仝南竿ノ浦村界字柳田(江川町支所よりジョイフルサン側)二達ス長サ凡二十四丁余巾五尺許
平瀬道  里道ニ属ス村ノ法城方(放生がた磯道団地)元標地ノ縣道ヨリ西二折レ竿ノ浦村界字小名切(ジョイフルサン左)ノ海邊二達ス長サ凡十三丁許巾凡四尺