長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (1)

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長崎医学伝習所近くで「高禅寺」はどこを考えられるか (1)

「高禅寺」が大村町の長崎医学伝習所近くとすると、今のところ考えられるのは、ほとんど当てずっぽすぎるが次の箇所である。

(1)前項の資料、中西 啓著「長崎医跡散歩」長崎文献社 昭和53年は32〜33頁において—日本動脈硬化学会のために—として第二章で「自然科学史跡」の紹介がある。このうち
(19) 佐藤泰然、林洞海宿泊地跡、小倉藩蔵屋敷跡、長崎師範学校跡(興善町五—三、長崎食糧事務所)
小倉藩蔵屋敷のあった新町六、七、八番地の地である。一八三五年春(天保六年三月十日)下総佐倉医和田泰然(のち佐藤家に入る)は長崎に留学、この地に宿泊し、オランダ商館長ニーマンについてオランダ医学を学んだ。一八三八(天保九)年、泰然は江戸に出て開業したが、一八四三(天保十四)年、故郷佐倉に順天堂を開いた。泰然はその長崎留学中、小倉藩屋敷から磨屋町のオランダ通詞末永祥守の家に移っているが、末永家は地番不詳で、旧居を確認できない。
とある。順天堂佐藤泰然は、関寛斎・佐々木東洋の師となる。

(2)長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年は、
113 大音寺(浄土宗・正覚山)(所在地:鍛冶町5番)を68頁で紹介している。このうち
大音寺は、慶長19年(1614)伝誉が開創。伝誉は筑後国の人で、野母の蔵徳寺を拠点に長崎での布教に従事した。最初、古町に中道院を開いたが、元和2年(1616)本博多町のミゼリコルディアの跡地を賜わり、同3年(1617)知恩院の末寺となった。寛永18年(1641)現在地に移され、同年、朱印地となった。
とある。「本博多町のミゼリコルディアの跡地」は、現在の万才町長崎地方法務局か。横の坂が深堀騒動の舞台となった大音寺坂(天満坂)で寺名のみ残る。ここらあたりも「興善」の地名がなかったか。興善にある寺から「高禅寺」と読み方は似てくる。

(3)同資料は、また
179 高林寺(曹洞宗・徳光山)(所在地:鳴滝1丁目6番)を72頁で紹介している。このうち
高林寺は、正保3年(1646)皓台寺住職一庭が開創。同寺は、最初、炉粕町にあったが、安政4年(1857)の諏訪神社からの火災で焼失した。明治45年寺地を三菱長崎造船所に売却、現在地に移転した。現在地にはかつて知足庵があったが(栖雲庵を天保5年(1834)に知足庵と改称)、同寺に合併された。
とある。高林寺は最初炉粕町にあった。三菱に売却とあり現在の三菱長崎造船所所長宅一帯のようである。この記述は鶴見台森田氏が見つけ出した。禅宗の寺で「高禅寺」とならないか。(次項へ続く)

(注) 「江戸時代(享和・1800年代)の長崎のまち」図は、嘉村国男著郷土シリーズ第二巻「長崎町づくし」長崎文献社から