関寛斎の寄宿ないし帰塾先「高禅寺」はどこにあったか

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関寛斎の寄宿ないし帰塾先「高禅寺」はどこにあったか

関寛斎は4月3日朝課を終りこの寺から出発し、浜の町を通って戸町峠へ向かった。4日は大浦で佐々木東洋・案内人長嶺圭朔と別れ、どこで入浴したかその後「高禅寺に帰塾」したら、復習はすでに終ったあとだった。

「高禅寺」の字は、日記原文を見ても間違いない。「帰塾」ないし「寄宿」先だったこの名の寺の所在について、史料を探しているが今のところわからない。私や「肥前国 深堀の歴史」著者芦屋市平幸治氏も、「長崎市史 地誌編 仏寺部(上下)」を確認したが、同書の廃寺にも記載はなかった。
私が願うのは、中西 啓著「長崎医跡散歩」長崎文献社 昭和53年は32〜33頁において—日本動脈硬化学会のために—として第二章で「自然科学史跡」を紹介している。日本近代医学の先駆けとなった長崎医学伝習所と学生の生活ぶりをもう少し明らかにしたいからである。

『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)所収の林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)には、「文久元年4月は、長崎医学伝習所は西役所近く大村町の高島秋帆宅(今のグランドホテル)にあった。(今の佐古小学校地に)小島養生所が新築されたのは、同年8月である。4月頃はまだ生徒が少なく全員を寄宿舎に住まわせていた」と記されている。
すると「高禅寺」は大村町でなければならない。佐々木東洋は「旅宿」に住んでいた。寛斎は戸町峠で「家宿」土産の茶を買った。同頁でこのような「関寛斎日記」を続けて紹介しているので、読み手はすぐ矛盾を覚える。林氏説を一応白紙にして、「高禅寺」探しにかかった。(次項へ続く)

(注) 「江戸時代(享和・1800年代)の長崎のまち」図は、嘉村国男著郷土シリーズ第二巻「長崎町づくし」長崎文献社から