「復習已二終ルノ后ナリ」と「高禅寺」の所在  平氏の調査

イメージ 1

「復習已二終ルノ后ナリ」と「高禅寺」の所在  平氏の調査

次は平成17年10月、兵庫県芦屋市に住む平幸治氏からいただいた書簡の一部である。平氏は「肥前国 深堀の歴史」(長崎新聞社 平成14年刊)の著者で、長崎深堀生まれ。郷土深堀の歴史に興味を持たれ、「みさき道」を記述した関寛斎の日記も研究レポートが縁で同氏の目にとまり、さまざまな専門的な研究と貴重な指摘、助言をいただいている。
帰塾先「高禅寺」に関する部分について、氏からの書簡の内容を紹介しておきたい。
なお、「復習已二終ルノ后ナリ」は、長崎談叢19輯の引用文は省略しているが、日記の末尾「高禅寺二帰塾ス」の後に、原文では出ている。

H 「復習已二終ルノ后ナリ」について
「講義を復習する時間がすでに終ってしまった後だった」という意味ではないかと解釈しました。「已」は「すでに」と読んでよいと思います。「已」は十二支の「巳」とは別字ですので(「イ・スデは中に」の「已」)、陸別町翻刻の「巳」は誤りだと思います。原文の写しは「己」(おのれ)に見えますが、文章の意味からすれば、「已二」(すでに)が通じやすいと思います。
この日(4月4日)は月曜日ですから、昼間はポンペの講義があったと思われます。夜になると松本良順が「復講」をしていたと思います。この「復講」または「復習」(自習か?)が日課になっていたのではないでしょうか。寛斎は遅く帰ったので、この日の復習に間に合わなかったのでしょう。
前日、寛斎らが出発した3日にも「朝課ヲ終リ」とありますから、日曜日でも朝の課業があり、月曜日ならなおさらか課業としての復習があったのでしょう。ただ日記に「復習」とあるのはここだけで、他所はみな「復講」とあるので(文久元年3月9日条ほか。なお同年2月22日条には「夜講」とある)、わたくしの解釈も正しいかどうかわかりませんが、一連の流れからすれば、この解釈も許されるのではないでしょうか。
長崎大学薬学部編「出島のくすり」64頁に、ポンペの講義を聴いてもオランダ語のよくわからない塾生に対して松本良順や司馬凌海・佐藤尚中がもう一度夜「復講」したという記述があります。「ポンペ日本滞見聞記」には、伝習生に対し「毎日四時間の講義をすることにした。午前二時間、午後二時間、それで彼らの講義を扱ったことを後でさらに深く研究するだけの時間的余裕があった」(新異国叢書本278頁)とあります。それにしても当時すでに日曜日を認識していたとは、はじめて知りました。

Ⅰ 帰塾先「高禅寺」の所在について
最後に、「高禅寺」について調べてみましたが、残念ながらわかりませんでした。「長崎市史 地誌編 仏寺部(上下)」にも見当たらず、同書の廃寺の記載にもありませんでした。引き続き調べてみたいと思います。
松本良順も最初は本蓮寺に寄宿し、西役所および大村町の伝習所内に移り、後には唐寺興福寺に移住したので、「高禅寺」というのも寛斎が下宿していたところだと思いますが、日記の他所の部分にも見当たりませんでした。万延元年12月23日、入塾の日には「入塾」とだけあり寄宿先などの記載はありません。後に、文久元年9月15日条に「稲岳新宅ヘ移居」、同年10月21日条に「新居ヘ移ル」とありますが、場所は書いてありません。
「復習」の場所が高禅寺なのか(「高禅寺に帰塾した。しかしながら復習はもう終った後だった」と読む)、あるいは復習は伝習所で行うけれども、復習終了後の時間だったので直接高禅寺に帰ったのか(「高禅寺に帰った。なぜなら既に復習が終っている時間であるから」と読む)。
前者なら、かつ「帰塾」とあるので寛斎以外にも寄宿している学生がいた可能性があり、且つ復講を主宰する松本良順の都合等も考えれば、大村町の伝習所に近い比較的大きな寺かも知れません。後者なら、寺町から伊良林あたり、あるいは寺の多い筑後町や本蓮寺近くの可能性もあるのではないでしょうか。いろいろ考えましたが、まだよくわかりません。

(次項へ続く)