裏雲仙吾妻山麓の「きため・あづま道」標石は今どこに

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裏雲仙吾妻山麓の「きため・あづま道」標石は今どこに

話は長崎市周辺を離れて裏雲仙へと飛ぶ。これは昔の街道—裏雲仙吾妻山麓にあった道しるべの「標石」である。私が若い頃、山行の途中で見かけ、この石の姿は私の記憶の中にずっとあり、それが偶然にも35年以上過ぎた一昨年の暮れ、今どうなっているか、妙に気にかかる出来事となった。

平成17年11月20日、長崎朝霧山の会の「山の清掃大作戦 クリーンハイキングin野母半島」が7コースに分けて実施された。会員でない私も新聞で知り道の枝払いがあり、集合場所が自宅近くであった「みさき道コース」に参加させてもらった。蚊焼入口バス停に13人が集合。秋葉山近く郷路八幡神社へ登りにかかった頃、会の長老と思われるいかにも人の良さそうな方の話を耳にした。
『吾妻の登りの道しるべの石はのうなった。「あづま」って書いとったごとあるが、あとひとつは何て書いてとったかなぁ?』という会員間の話である。
ここで私の脳裏が蘇った。『あれは確か「右きため道、左あづま道」と思います。石は道に転がっていたようですが、今もうなかとですか』

「きため」とは神代・国見・島原方面を指す。「あづま」とはもちろん吾妻を指す道と思われる。かれこれもう30年位、私は山にほとんどご無沙汰であった。最近のこの道は全然知らない。九州自然歩道になっている。私が標石の場所と刻銘を覚えていたのは、若い頃この道を良く通り、記録していたからである。山頂の馬頭観音の祠で泊りがけの月見をしたり、田代原への行き帰りに利用したのは再三であった。

家に帰って昔の記録を調べると、昭和42年4月裏雲仙へ初めて行った山行記録があった。ここの標石は、文中で次のとおり記していた。

『樹間には夏草がおい茂り、かなり心細い道である。田代原への車道が眼下に広がった伐採地で、橘神社の尾からあがってきた道と合したときはホッとした。だが、それもつかの間、500mも進むと道はまた二手に分れる。
ここに腐りかけた木の指導標があり、「←愛津展望所 田代原→」と指している。それに従うと、田代原は右の道とわかるが、この上手を分れる道も踏跡がかなりある。なにかしら稜線へ抜けそうな道である。なるべく稜線へあがりたいと考えていたので、この三叉路でどっちをとってよいものか迷った。地図を調べるが、この上手の道はない。気をこらすと、道脇に倒れた石柱があった。風化した字を手さぐりで「右きため道 左あづま道」(?)と読んだが、転がった石のため左右がどっちを指しているのか解らない。地名がどこを指すのかも解らない。時間が時間だし、結局、地図にあらわれた下手右の田代原へ道をとることにした。
あとは吾妻岳の中腹をはって坦々とした雑木林の中の一本道。時折、左直上にその山頂附近の奇怪な岩峯を初夏の空に仰いで、40分して水場をすぎると、田代原はもう間近であった』

よほど裏雲仙が気にいったのか、その後も千々石川を田代原まで遡行し、詳しい沢登りの概念図を作成して昭和45年に掲載している。思い出多い山である。このルートは国体コースでなかったが、昭和44年あった長崎国体は、やがて一巡する年となろうとしている。

そこで「裏雲仙吾妻山麓の標石とルート探し」を、会の行事として実施することとした。たまには市外へ遠出するのも悪くない。朝霧の例の方の同行も考えたが、連絡が取れなかった。裏雲仙のコース図は、山と渓谷社刊『長崎県の山』にも「4 吾妻岳・鳥甲山」があるが、このルートの道は本に紹介されていない。廃道となり今は使われてないのだろうか。

12月11日(日曜日)はまずまずの天気であった。車2台で10人が参加した。愛野展望台から「あづまの里」の大駐車場に車を置き、10時頃から歩き出した。ここは千々石小学校前から上った九州自然歩道が直角に曲がり、愛野の断層壁に沿って田代原へ行く所である。
私が以前の記録に記した「弘法原」とは、このあたりだろうか。時間がなかったので、社(やしろ)と「専照寺所有地」の碑は探せなかった。大きな窪地も興味があった。大昔の火口跡か、隕石落下跡かと考えたりしていて、「探偵!ナイトスクープ」はこんな科学的なことを取り上げたら、楽しめると思う。火口跡が港とか、隕石のクレータと言われる所は全国各地にあるのではないか。
「千々石町郷土誌」を読んで下調べをしたが、その記録はなかった。現地は状況が変っており、今回はどこがどこかわからなかった。しかし、郷土誌によるとここは昔の街道に間違いなく、「弘法原」を「歌垣」(古代おおらかな時代の男女交合の場)と考察する説はおもしろかった。

自然歩道は、「あづまの里」の周りから植林の中を平坦に30分ほど行き、鉢巻山の下でコンクリート舗装した亀石林道カーブ地点と合い、林道を終点までつめる。この林道が自然歩道となっている。右手に九千部岳の鋭峰を高く眺め、車道の舗装が切れてから10分ほどして、長崎朝霧山の会の「吾妻岳↑」のプレート分岐が左にあり、黄色いリボンが着けられていた。やはり吾妻岳へ直登するルートの道は残っていて、少しは登山者に利用されているのだろうと安心した。
しかし、分岐地点に「右きため道、左あづま道」の標石は見当らなかった。林道は延長され植林地帯が大きくなり過ぎて、以前の記憶を呼び戻すことができない。今日はともかく自然歩道をそのまま田代原まで進み、吾妻岳へ登ってから、その下りにまた探すこととする。

自然歩道の道標によると、「あづまの里—田代原間」の距離は5.8Kmである。平坦な道といえ最後は徐々に高度をかせぎ2時間以上かかる。田代原へ着いたのはすでに12時を過ぎ、遅い昼食となった。雲仙岳主峰は雪面の斜面に風が舞い、田代原も寒かった。先日の残雪が少しあった。
これより標高870mの吾妻岳へ向かう。岩・木の根をつかみ、鉄はしごがある急峻な登りは、高度差が200m位だろうか。普通は30分のところ、休み休み50分かかって皆へ迷惑をかけた。寒いから息苦しくゼイゼイ言う。年がいったうえこんな高い山は、最近車以外で登ったことがない。酸素が薄く感じられた。一度心臓の悪い妻を連れて行き、「私を殺す気か」と今でも恨まれている。やっとその心境がわかった。
どんよりした空だったが、山頂からの橘湾や有明海の展望は素晴しかった。西へ300mほど行くと馬頭観音の祠がある。まだ参る人が多いのか以前より広場は広くなり、ブロックの堂は改装されて多人数泊れるようだ。

祠からいよいよ吾妻の断層崖をさらに西側へ、「大だまり」という鉢巻山との鞍部へ向けて、昔のルートを下ることする。入口に簡単な標識とリボンがあったが、潅木の中の心細い道である。今日の参加メンバーでこのルートを私以外、知る者はいない。2年ほど前歩いた人に様子を聞いていたが、あまり人が利用せず潅木が伸びて、歩ける道でなかったと言っていた。全くそのとおりであった。
鋸で2〜3人が枝払いし、かすかな踏み跡とテープを頼りに、尾根を間違わないように進む。「大だまり」近くとなりそこへ降りるため尾根から外れる箇所で、斜面のため一部道が崩れており、判然としなかったため時間を要した。このルートは山頂近くの潅木帯を抜けると、だんだんと樹木の背が高くなってきて、後は歩きやすい木立の中の下り道だった。

「大だまり」に来て、見覚えがある猪垣か石垣を越して安心した。下りの入口さえ間違えなかったら、何とか下る自信はあったが、ここまでは疑心暗鬼であった。すでに1時間以上を要している。ここにも朝霧が付けたプレートがあった。だが、そこからもなかなか自然歩道の分岐地点へ出なかった。すぐ下に歩道が見えるはずなのに、鉢巻山の麓の斜面を25分ほど横へ横へと心細い道をはった。昔のそんな記憶はない。自然歩道が出来てから、分岐地点が変わっているのかも知れない。

やっと、行きがけ目にしていた自然歩道の朝霧プレート「吾妻岳↑」の分岐地点へ下ったのは、午後4時であった。距離はさすがに長かった。「右きため道、左あづま道」の標石は、途中もここもどうしても見当らなかった。後は「あづまの里」の駐車場まで、日が欠けた寒い道を急ぎ足により30分で戻り、車2台はここで別れて解散し、長崎へと帰った。
私の個人的な思いによって、寒い時期に急に組んだ企画であったが、参加メンバーは初めてのコースだったので喜んでくれた。暖かくなってツツジや山法師の咲く頃、またのんびり是非来たいと言ってくれた。裏雲仙を楽しむ日帰りコースとして最適であろう。私の目的はそのルート探しでもあった。

「右きため道、左あづま道」標石の所在は、合併した雲仙市千々石行政センターに電話した。自然歩道は雲仙にある「長崎県雲仙公園管理事務所」が管理している。そちらへ聞いてほしいとのことであった。現在、担当の方へ問い合わせ中。なにぶん昔のことで標石を知らないし、自然歩道の工事の時でなく、歩道に取り込んだ亀石林道が延長工事をした際、どうかなったのではないかとの話であった。林道に車が入るようになり、持ち運ばれた可能性も考えられる。

地元の人でも、もしこの標石の所在を知っていたら教えてほしい。できれば以前の分岐近くの自然歩道へ戻し、自然歩道が昔から由緒ある街道だったとの説明板をつけ、歩道の一景観となることを念じている。
今回探したコースは、1971年「長崎県の地学」石井氏稿により「地形図には描かれていないが、吾妻岳から鉢巻山の山腹を経て、千々石の野田へ出る道がある。日陰が多いし緑を楽しめながら歩くことができる」とあった。
もう一度近いうちに千々石橘神社から亀石林道を登り、詳しく調査したいと思っている。