長崎への道(長崎への抜け道を歩く)  江越弘人氏稿

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長崎への道(長崎への抜け道を歩く)  江越弘人氏稿

長崎は、山に取り囲まれており、長崎に入るには必ず峠を越えなければならなかった。
『長崎名勝図絵』には、長崎要路として6つの通路を挙げている。最初に東泊口を挙げ、「長崎の南、更に下れば深堀、野母浦。次に茂木口、長崎の南。田上峠から東南に茂木浦口、天草に至る。頴林口(いらばやしくち)長崎の東、旧長崎城の古道、東南して台原、大窪山の道を過ぎ、眉嶽の南に至り、東口を下りて飯香浦に至る。火見嶺(ひみとうげ)口長崎の東。一瀬橋を渡り、峠口を経て矢上駅。東して諫早荘。馬篭口長崎の北。ここを北に行けば長与路、浦上圯(どばし=現在の本大橋)、更に北すれば時津の港で大村に至る。西山口長崎の東北、路が三つに分岐して、右は矢上駅、左は浦上、中は伊木力から海路大村に達する。」と記している。
東泊口については、対岸の西泊と相対する現在の戸町辺りではないかという説もあり、ここから上流を東泊渓と言っていたが、今日唐八景となったと言っている。恐らく二本松の峠か唐八景から上戸町に下る路を考えているのであろうが、ここは素直に長崎港からの海路のことと考えてもよいのではないだろうか。
このように考えると、陸路としての長崎出入りの重要な道は、田上峠の茂木口、日見峠の日見口、西山口、西坂を越える馬込口の4口で、それに付け加えて矢の平の谷を上って田手原、重籠を通り飯香浦へ出る伊良林口ということになる。
幕末になって、先に上げた4口には、それぞれ番所が設けられ、長崎への出入りを厳しく取り締まった。これらの日見(長崎街道)・茂木(茂木街道)・西山(西山街道=大村殿様道)・西坂(時津街道)などは、それぞれ遠くの地方と繋がっていたが、長崎周辺の村々と結ぶ道も矢張り峠越えで整備されていた。その中で最も知られているのが『みさき道』で、十人町の坂を登り、大浦に下ると再び二本松峠を越えて、深堀や野母・脇岬に陸路で繋がっていた。又、伊良林道は、日見峠が整備される慶長年間以前には、古長崎街道としての役割も果たしていたという言い伝えもあり、4口に次ぐ大切な道であったと思われる。
今回、紹介する2つの峠道は、長崎と矢上地方とを繋ぎ、さらに長崎街道と結ばれる、いわゆる長崎街道の間道として、つい最近まで地域の生活道として使われていた。この峠道は、長崎の山歩きを愛する人々にはよく知られている日見峠から三ツ山への縦走路にあり、いわゆる四つ峠のことである。日見峠は、長崎街道が通り、木場峠は、西山口から矢上薩摩城・田ノ浦へ通じており、長崎名勝図絵にも触れている。
今回、紹介するのは中尾峠道で、本河内から中尾・田ノ浦へと通じている。あと一つの現川峠道は、西山口から仁田木場の集落を通り現川加勢首へ下り、長崎街道へと繋がっている。この二つの峠道は、峠の両側の集落の人々に日常的に使われていたほかに、長崎への近道・間道ともなり、長崎奉行所や山の向うの佐賀藩では、不審者の長崎出入りについては神経を尖らせていた。
この二つの間道が、今も昔のままに残っていることは嬉しいことである。

(注) 江越弘人氏は、長崎街道ネットワークの会会長、「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者。中尾峠道・現川峠道の公民館講座資料を研究レポート第2集の222〜232頁に収録している。