旧唐人屋敷内天后堂塀の「福建地堺」と地番標石  長崎市館内町

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旧唐人屋敷内天后堂塀の「福建地堺」と地番標石  長崎市館内町

この標石のことは、ブログ”パソ親父の「長崎さるく」珍道中&長崎情報”の2007.5.19記事「ラビリンスの謎〜長崎路地裏探検〜」に出ていたので訪ねた。
場所は長崎市館内町の旧唐人屋敷内。一番上の方に赤レンガ塀に囲まれた「天后堂」がある。正門から左へ回り、背後の小さい路地に入ると、その角に赤レンガ塀に埋め込まれてある。「福建地堺」と大きな石柱に刻まれ、根元には「壹號」と小さな地番標が別にあった。近くには家にくいこんだ大クスが残っていた。

長崎市指定史跡「天后堂」の説明板は次のとおり。標石の設置年代はこれから推測するしかない。「壹號」の地番標は天后堂前にもあった。旧唐人屋敷内を回ったが、他に森橋などで「境」と刻まれたような小さな標石を2〜3本見た。
先項により東山手・南山手町の外国人居留地跡標石を紹介している。唐人居留地の関係標石も大切なため記録しておく。
なお、稲佐国際墓地でも「福建墳?地界」と刻んだ標石を後日見つけた。

市指定史跡  旧唐人屋敷内 天后堂(てんごどう)
指定年月日 昭和49年10月15日  所在地 長崎市館内町12番地  所有者 長崎市

唐人屋敷は、徳川幕府が鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住区であり、元禄2年(1689)に完成しました。この天后堂の建立は、元文元年(1736)南京地方の人々が航海安全を祈願し天后聖母を祀ったのが起源といわれます。寛政2年(1790)修復、明治39年(1906)に改築し、現在に至っています。
長崎市教育委員会 (平成14年1月建)