長崎の外国人居留地跡標石」カテゴリーアーカイブ

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (50)〜(55)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (50)〜(55)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(50)〜(55)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (52)  ウォーカー邸に保管していた標石を、スカイロード側南山手レストハウス(旧清水邸)下の遊歩道角に移設している。
標石   O  どじょう会の報告後、見つかっている「居留地境」の標石。陶板プレートが付けられている。グラバー邸第2ゲートから東琴平2丁目の山腹道を行く。宮崎宅前の石垣に埋め込まれている。
標石? P  グラバー園の南側を、外から第2ゲートへ向け車道を上って行く。旧スチイル記念学校下あたりに大楠の公園があり、遊歩道階段の下角に石柱がある。風化具合は、大浦町NTT病院裏のと似ている。 

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (42)〜(49)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (42)〜(49)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(42)〜(49)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (42)〜(45) 南山手地区町並み保存センターに保管とある標石4本。倉庫に3本はあったが、(44)の刻面の標石は見当たらず、要調査。
センターの建物は、大浦天主堂へ登る坂の現グラスロードにあった洋館を、16年前に移築している。標石もその時のもので、地番は合うという話である。
標石? MとL  ここにも残っていた「三菱用地」の古い標石。三菱重工長崎造船所から寄贈された「長崎グラバー園」入口と、地獄坂先の「三菱重工南山手外国人住宅」登り口の対面角。
標石 (47)〜(49) 大浦天主堂前から左へ行くと妙行寺墓地に出る。天主堂との間に登る坂があり、この坂にあと3本の標石(次項)がある。ガス管工事中。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (33)〜(41)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (33)〜(41)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(33)〜(41)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。
長崎グラバー園の最上部となる「旧三菱第2ドックハウス」(第2ゲート入口)の左横。「居留地境界石柱」の説明板がある一角に、主な標石11本が集められ展示されている。
配置順は図のとおり。

標石 (35) 正面「二十九番 29」、裏面あり「ニ拾七番 27 二拾八番 28」
標石 (36) 正面「二拾八番 28 二拾八番 28」、裏面あり「一番 1」
標石 (41) 正面「壹番 1 ニ番 2」、裏面あり「ニ十八番 28」
標石? L  これは「陸軍」用地標。裏面番号は見忘れ。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (28)〜(32)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (28)〜(32)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(28)〜(32)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? L  グラバー園入口左石垣上の標石(29)右奥植え込み内にある。旧石門の一部か?
標石 (30) グラバー園内の「裁判所長官舎横」とあるが、所在がわからず調査中。遊歩道が再整備されている。どこかへ移された?
標石 (32) 「ニ」と刻んだ小さな標石。ドックハウス建物の下り階段脇に放置しているこの石ではないか。「居留地境界石柱」説明板がある一角を整備した際、はずしたと思われる。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (23)〜(27)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (23)〜(27)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(23)〜(27)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石 (25) 土肥徹宅の左隣に新築の家があり、裏手の左角下にある。下の小浦宅から回って見た方がよい。マリア園のグランド真下。「修道院」の境界柱が溝の対面にある。
標石? F  ロシアコンスイ坂から三菱電機清明寮駐車場へ入る右道脇。これは「三菱電機」の境界標。
標石? G  同坂から三菱電機清明寮駐車場へ入って左上。これも「三菱電機」の境界標。
標石? H  同坂から三菱電機清明寮駐車場へ入って右道下の斜面地。
正面に「十九…」、裏面に「二十番」と刻面があった。今回、新たに見つかった「居留地地番標」。地上に見えている面の寸法は、縦13cm、横18cm、高さ25cm。
標石? I   同坂登り口から長崎市南公民館へ向い、すぐ左道脇。丸柱と新しい角柱の上だけ見え不明。
標石? J  長崎海洋気象台の方へ向い、すぐ左道脇の駐車場角にある。これは「陸軍」の用地標。裏面に「六」。
標石? K  長崎海洋気象台入口道路の左角にある。これも「陸軍」の用地標。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (15)〜(22)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (15)〜(22)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(15)〜(22)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (9)〜(14)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (9)〜(14)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(9)〜(14)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? B  梅本宅下の売家の井戸脇。裏面に「乙 三拾…」のような刻字がある。「居留地地番標」?。
標石  (9) 宮崎宅。隣家との境土手上に2本あったよう。1本を庭溝に裏返し蓋にしている。
標石? C  標石(10)の擁壁の中段。降りると「岡部所有…」のような刻字あり不明。
標石? D  標石(11)近く下。これは新しい標石で「電話局」のようである。
標石? E  標石(12)ガレージ上奥の家角。これは「水神」の古い標石を放置している。

(追記 平成20年12月24日)
標石(9)について、どじょう会リストは「居留地境」とあるが、23日に宮崎安美氏宅に再び寄り標石をよく見たら、最後に写真を追加したとおり、「岡部所有」の刻みであった。
(10)の下段の「標石?C」も「岡部」の刻みである。双方とも居留地を示す標石と思われないが、参考のため、掲載はそのままとしておく。

(2015年7月4日 追 記)
標石(9)について再調査を要し、7月2日に東琴平1丁目25−8の宮崎安美氏宅(どじょう会リストは旧番地であった)を訪ねた。家人不在だったが、庭の溝蓋にした石柱を確認した。
追加写真のとおり、「岡部所有」の刻みのある石の上にあと1本、石柱らしいものがある。これが「居留地境」標石の可能性があるが、コンクリート固めして裏返しできないため、実情は以前として不明。家人は前回そのような話はしてなかった。
「東山手地区町並み保存会」が、平成18年9月5日現在で調査した標石の所在マップと写真パネルがあるが、この場所の標石はまったく表れていない。「長崎市東山手地区町並み保存センター」2階展示。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (1)〜(8)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (1)〜(8)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(1)〜(8)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石  (2) 風化した標石(2)の左後ろにあと1本。「居留地境」と刻んだ新しい標石が据付けられている。史跡境の標柱?
標石  (5) 十八銀行南山手寮の敷地内。外側の坂段道からフェンス越しに見られる。
標石? A  標石(6)の上角。近所の人の話で「居留地境」と刻まれていたと聞く。史跡境の標柱?

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の現況調査

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の現況調査

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が、上記のとおり報告されている。
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した結果を、以下、カラー写真で紹介する。どじょう会の報告に表われていない標石も、少し見つかっている。

旧唐人屋敷内天后堂塀の「福建地堺」と地番標石  長崎市館内町

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旧唐人屋敷内天后堂塀の「福建地堺」と地番標石  長崎市館内町

この標石のことは、ブログ”パソ親父の「長崎さるく」珍道中&長崎情報”の2007.5.19記事「ラビリンスの謎〜長崎路地裏探検〜」に出ていたので訪ねた。
場所は長崎市館内町の旧唐人屋敷内。一番上の方に赤レンガ塀に囲まれた「天后堂」がある。正門から左へ回り、背後の小さい路地に入ると、その角に赤レンガ塀に埋め込まれてある。「福建地堺」と大きな石柱に刻まれ、根元には「壹號」と小さな地番標が別にあった。近くには家にくいこんだ大クスが残っていた。

長崎市指定史跡「天后堂」の説明板は次のとおり。標石の設置年代はこれから推測するしかない。「壹號」の地番標は天后堂前にもあった。旧唐人屋敷内を回ったが、他に森橋などで「境」と刻まれたような小さな標石を2〜3本見た。
先項により東山手・南山手町の外国人居留地跡標石を紹介している。唐人居留地の関係標石も大切なため記録しておく。
なお、稲佐国際墓地でも「福建墳?地界」と刻んだ標石を後日見つけた。

市指定史跡  旧唐人屋敷内 天后堂(てんごどう)
指定年月日 昭和49年10月15日  所在地 長崎市館内町12番地  所有者 長崎市

唐人屋敷は、徳川幕府が鎖国政策の一つとして、現在の館内町に設置した唐人の居住区であり、元禄2年(1689)に完成しました。この天后堂の建立は、元文元年(1736)南京地方の人々が航海安全を祈願し天后聖母を祀ったのが起源といわれます。寛政2年(1790)修復、明治39年(1906)に改築し、現在に至っています。
長崎市教育委員会 (平成14年1月建)