長崎の外国人居留地跡標石」カテゴリーアーカイブ

長崎居留地の境石  「くにざかいの碑—藩境石物語」から  

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長崎居留地の境石  「くにざかいの碑—藩境石物語」から

長崎居留地境石は、藩境石塚に引用した「くにざかいの碑—藩境石物語」(昭和58年峠の会発行 福岡)に詳しくあったから、そのまま紹介してみる。この本の標石の記録は20年以上経った今、貴重となった。記録の大切さを知る。「みさき道」は十人町の道塚から活水大学裏へ上ると、そこの塀に埋め込まれたこの境石を見る。

長崎居留地境石—長崎市   (87〜89頁)
明治維新の前後、二十五年の長期間にわたって日本に滞在した英国の外交官アーネスト・サトウが残した『日本における一外交官』のうち、一八六二年(文久二年)の記録に
「(神奈川の)外国人居留地の安全をいっそう確保するために、陸続きの方面に広い堀割をめぐらして、それに橋をかけ、この橋を関所として危険人物の侵入を防ぐとともに、また外部から持ち込まれる品物にも課税しようという一石二鳥の考えから−-」(岩波文庫)
とある。神戸の居留地はどうだったのか。当時の絵図を調べると、ここも居留地の境界は堀割になっていた。
しかし、長崎は丘の上に居留地があったから堀割で囲むのは無理だ、境界標識を設置していたのではなかろうか、というのが長い間、私が抱いていた疑問だった。
そんな私の目にふれた、朝日新聞の記事の一節——。
「十人町の石段を上りつめると東山手町だ。活水女子短大の裏べいには外国人居留地の境界石、いかにも合理的な外人の発想らしい三角溝も残っている」
活水女子短大前は石畳の坂道で、長崎らしい異国情緒を残している一画。居留地時代につくられたと思われる『十三番NO13』などと彫られた道路わきの石は、屋敷番号か、地番号か、読めないほど風化したものもある。
居留地境
と刻んだ境石は、短大の裏塀に半分塗り込められたかたちで保存されている。材質は砂岩でもろく『居』の字は消失している。地上に出るはずの加工された部分の高さは七八㌢。
安政五年(1858)六月に結ばれた日米修交通商条約によって、翌年二月、長崎が開港。各国領事館が設置され、外国人居留地が指定されたとき、この境石はたてられたのであろう。
通りかかった児童を引率した小学校の先生にたずねると、破損したものなら四つ五つあるらしいとのこと。しかし、道を急ぐ先生の説明では、地理不案内の私には所在がよくわからなかった。(略)

このあと、遠来の客を案内して長崎に遊び、十数年ぶりにグラバー邸に足を運んだことがある。幕末、明治初期の木造家屋を多く移転して「長崎の明治村」へと変貌していた。
一番高台に移した三菱ドッグハウスの横の芝生に『居留地境』の境石が保存され、説明板がたっている。『居』の字もきれいに残っている。しかし、観光客のだれひとりとして立ち止まらない。長崎に来ながら居留地という言葉自体に関心がないのであろうか。わずかに同行した家内だけが興味を示した。私はわびしい気持で坂を下った。

以上が「くにざかいの碑—藩境石物語」の記である。私の妻は標石はおろか、私の行動や存在自体に何の関心を示さない。
さて、活水大学裏べいの「居留地境石」はよく知られているが、ここで私が紹介したいのは、文中の「朝日新聞の記事の一節——。…」のくだりである。

それは「みさき道」の参考資料として、古賀町陸門氏から提供いただいた新聞スクラップの中にあった。朝日新聞に掲載された昭和51年4月初めの記事「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(3)にこの文がそっくり表われる(シリーズの全回は、研究レポート第2集に収録している)。

シリーズ(3)の記事は上のとおり。この日の新聞記事を本の著者古賀敏朗氏は目にして、疑問解決のため長崎の居留地跡へ出かけたのだ。調査をしているといろいろな偶然が重なりあうことがある。これもその一例。内容が深まった。
あと1人、このことに気づいている人がいる。後日談でわかったのだが、長崎街道研究の織田武人先生。先生も「くにざかいの碑—藩境石物語」は愛読書であった。

外国人居留地跡内の変わった珍しい標石

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外国人居留地跡内の変わった珍しい標石

画像上から
① 「1928」「USA」 活水大学オランダ坂登り口、長崎三一教会の角。前アメリカ領事館跡。
② 「水 準 点」 長崎全日空ホテルグラバーヒル手前、自動販売機の裏
③ 「陸   軍」 長崎海洋気象台前。あと1本道路反対側の先、駐車場角にある。(下記のとおり修正)
④ 「大北部電信会社」 前浪の平小学校裏手のプール坂登り口
⑤ 「大 浦 橋」 石橋の横断歩道手前 昔の橋の欄干
脇の碑に「寄附者 大浦郷 林増五郎 村川勝太」

(2016年7月3日修正)
③の「陸 軍」標石は、掲載写真の間違いがあったので修正する。
長崎海洋気象台(現在は「長崎気象台」と名称変更)前のは、⑥、道路反対側の小曽根邸のまだ先、駐車場角にあるのは、⑦、グラバー園東ゲート横に移設展示されているのは、⑧となるが、⑦については、現在、この駐車場に家が建ち、撤去されたか所在不明であると聞いている。

出島にある居留地時代の地番標石

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出島にある居留地時代の地番標石

安政6年(1859)、出島のオランダ商館は廃止され、領事館が設置されました。さらに慶応2年(1866)には外国人居留地に編入されます。この石標柱は居留地時代の出島の地番を示したものです。現在、敷地の東側から中央部にかけて、道路沿いを中心に7箇所の石標柱が残されています。(標石説明板より)

長崎歴史文化博物館の史料により、明治9年「地理局測点」が「出島居留地 五番□□通衝」にも設置された記録があり、念のため現地を調査に行った。その形跡はなかったが、運よく四番・五番の境を示す地番標石が現地に説明板をつけて展示されていた。

外国人居留地跡の標石リストと所在地図 どじょう会調査記録から

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外国人居留地跡の標石リストと所在地図 どじょう会調査記録から

外国人居留地跡の標石リストと所在地の一覧地図 南山手・東山手・出島。
長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」平成6年調査記録から。 

外国人居留地跡のある境界標石の受難

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外国人居留地跡のある境界標石の受難

郷土史家故永島正一氏が昭和34年10月「長崎手帖 第21号」で紹介した長崎市広馬場町の十善会病院前、森米屋の店先にある外国人居留地跡の当時の境界標石である。

撮影してから約47年を過ぎた今、現地に行ってみると、上の写真と記事のとおり変っていた。碑のわびしい姿がまたひとしおであった。