月別アーカイブ: 2008年12月

長崎の古写真考 目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
目録番号:5630 稲佐海岸(5) ((3)は間違い。(5)に訂正している)
目録番号:    お栄の桟橋 「旧渕村の歴史を顕彰する会」所蔵

■ 確認結果

研究レポート第3集179〜182頁に掲載しているので、詳しい説明は省略する。
要点は、稲佐お栄が造った「お栄の桟橋」と言われる桟橋は、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」か、それとも、胸を病み静養を兼ねて烏岩神社のすぐ下、平戸小屋にホテルを開業した時代の「丸尾山」の入江か、ということである。

古写真の1枚目と2枚目は、長崎大学附属図書館所蔵。「稲佐崎」とは、現在の「旭町」バス停右上、マンション「カネハレジデンス旭町」が建っている高台である。
JR長崎駅裏の埋立地から以前写していた写真と比べても、ここが「稲佐崎」に間違いない。「稲佐崎」の桟橋を「お栄の桟橋」として説明している。

古写真の1枚目の「稲佐崎」の左奥には、一帯の埋め立てのため明治期に切り取られた丸尾山と入江が、くしくもそのままの姿で写っている。気づく人は少ないだろう。
この「丸尾山」の入江にも桟橋があった。ここの桟橋を「お栄の桟橋」とするのが、「旧渕村の歴史を顕彰する会」である。
桟橋があった現在の丸尾公園の西角の場所に、説明板を設置している。
その根拠は、同会が所蔵する3枚目「お栄の桟橋」とする古写真。本来は、竹内和子氏所蔵だった。問題はこの古写真の、桟橋の状景となる。

同古写真を見ると、長崎港口を隔てて遠く霞んだ山は、女神上の「大久保山」(標高233.7m)の姿にまぎれもないであろう。
現在の国土地理院地形図を掲げた。丸尾公園の当時の桟橋の位置から、大久保山は写らない。奥まった入江で、丸尾山の先端や大鳥崎が邪魔したはずである。
丸尾山の対岸となる突き出た岬の先端、「稲佐崎」であれば、大久保山はそのように見えて写るはずである。「稲佐崎」を延長し、旭町岸壁のNASA先で、大久保山の姿を写してみた。

外にも理由がある。3枚目の古写真に写る桟橋は、1枚目と2枚目の桟橋とほとんど変わらない。階段・桟橋の向きと格好、横に張り出した木、高台の松も同じように見える。
「稲佐崎」のホテル・ヴェスナーへ行くのに、なぜ遠い「丸尾山」の入江の桟橋を使用しなければならなかったか。ホテル近くに桟橋を造ったはずである。

「丸尾山」の入江とすると、平戸小屋にホテルを開業した時代の桟橋も、「お栄の桟橋」と呼ばれたことは考えられるが、同会が所蔵する問題の古写真については、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」と判定してよいのではないだろうか。

掲載を略したが、長崎大学データベースの目録番号:5630「稲佐海岸(5)」と同写真、目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」の解説は、間違いであろう。長崎市街地へ通船があった志賀の波止は、まだ北側の入江ではないか。立山や山裾に筑後町の寺院群までは写っていない。左の山は彦山である。
これは、目録番号:5519「ホテル・ヴェスナーと桟橋」の方の解説が正しく、稲佐崎のいわゆる「お栄の桟橋」ではないか。

長崎の古写真考 目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)
〔画像解説〕    超高精細画像
ジョーダンから河村に贈呈されたアルバムの中の1枚で、A206 KONPIRA HILL AT NAGASAKIと印字が読める。長崎の南山手の琴平神社から居留地の南端と浪ノ平を展望する。右手前の大きな建物は明治20年(1887)に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(後の浪ノ平小学校)、その屋根越しに明治22年(1889)上棟の南山手25番、横の洋館は24番が見える。小学校の玄関には先生らしき人が立ち、校庭では男女の生徒が見える。右の丘上の「ヨンゴ松」(曲がった一本松で明治34年台風で倒木)の直下はグラバー邸。その下はリンガー邸で、さらにその下の旗竿はロシア(領事館は明治18年から別の場所で南山手17番)のものである。その下にはロシア海軍病院(石垣下)が見える。浪ノ平の手前の海岸には造船中の和船が見える。写真中央の大きな建物群は造船所で、その背後は出島。その右の出張りは梅香崎にあたる。撮影は明治20年代の中頃と思われる。

目録番号:5461 長崎港と浪の平南山手(2)
〔画像解説〕
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並みは手前から古河町、浪の平町。写真中央の工場付近が小曾根町の三菱炭鉱社と麦粉会社。居留地末期の明治30年(1897)頃。

■ 確認結果

まったく同じ構図の古写真。2枚目の説明は正しい。ただ、撮影場所を「南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む」としている。
居留地の「南端」は、説明文が続けるとおり、写真に写っている「尋常鎮鼎小学校」校舎の「裏手から山麓一帯」となる。
実際には、まだかなり手前となる高台、東琴平1丁目の「金刀比羅神社」の境内内。小曽根乾堂像が立つ一角あたりから、古写真は写されている。

あと注視したいのは、古写真の1枚目の方で、中央右寄り下に小さく写っている桁石橋が、そのまま現存する。親柱に「寄附者永井傳之?」と刻み、橋名はない。
「尋常鎮鼎小学校」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1442
明治11年1月11日に地元の実業家(貿易商・書家)小曽根乾堂が建てた小曽根小学校を後に改称した学校。「長崎市立浪平小学校」の前身となるが、浪平小学校も学校統廃合により2007年3月に閉校した。

「尋常鎮鼎小学校」の跡地は、現在の「長崎市南公民館」と併設の老人福祉施設「つばき荘」である。「長崎市立浪平小学校」は、大正14年頃に上部の別の場所に新校舎を建てたと思われる。
長崎市教育委員会が以前発行した「長崎古写真集 居留地編」には、尋常鎮鼎小学校が建つ前の同じような状景の古写真があり、「このあたりが浪平小学校」と説明している。詳しく説明しないと、現在では少し誤解を与える説明となっているようだ。

古写真HPについて言えば、撮影場所を具体的に「金刀比羅神社の境内から」とし、2枚目の説明を、1枚目にも記した方がわかりやすいと思われる。
「古写真に残る石橋風景」の追記参照。 https://misakimichi.com/archives/1570

相生地獄坂「(聖?)徳太子上リ道」の標石  長崎市相生町

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相生地獄坂「(聖?)徳太子上リ道」の標石  長崎市相生町

長崎は坂の街。高台にも家が密集し、各所に「地獄坂」と名をつけた坂が多くある。大浦地区の「相生地獄坂」は、石橋電停からジョイフルサンの角を行った奥左の急な坂段道。長崎グラバー園の最上部、第2ゲートへ出る。
少し離れた左側を「長崎グラバースカイロード」の斜高エレベータが上がる。同エレベータは、地獄坂のつらさを解消するためにもできたと思われる。

「相生地獄坂」の坂段登り口の左電柱脇に、写真のとおりの古い標石があった。正面は上がはげているが「(聖?)徳太子上リ道」、左面に「道路十坪 寄附者…」。
「(聖?)徳太子」の意味と場所がわからない。
この道はさらに上に上がると「鍋冠山」(標高169m)山頂に着く。東山手町「冠鍋山誠孝院」(昨日寄ったら、扁額の字は確かにひっくり返っていておもしろかった)から直接行かれる、最も近い道となるようである。この辺りも考えて、調べてみたい標石と思われる。

(追 記 平成20年12月27日)
広助氏のHP「広助の丸山歴史散歩」に、次のとおりあるので参照。
聖徳院跡(しょうとくいん-あと)  白石稲荷神社の北隣にある六角形の塔は聖徳院(六角塔)と呼ばれ、… 鍋冠山の由来は、東山手町にある冠鍋山誠孝院と関係が深く、江戸時代に山のふもとで日親上人(通称:鍋冠日親)の石像が発見したことによります。

「ほしなべ」氏のコメントにより、12月26日に鍋冠山の六角塔を訪ねた。脇に石塔があり、「聖徳殿建設記念碑」「大正十二年十月 報恩会」と確かに刻まれていた。

外国人居留地の標石(境石・地番標)めぐり (2)  平成20年12月

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外国人居留地の標石(境石・地番標)めぐり (2)  平成20年12月

平成20年12月23日(火 祝日)曇り。外国人居留地の標石(境石・地番標)めぐり。21日が雨のため延期した。参加12人。
湊公園9時半発ー広場場ー館内ー東山手(町並み保存センターで昼食)ー大浦天主堂ー南山手ー東琴平ー浪の平ー水辺の森公園15時着。

(1)が東山手まで。(2)が南山手以降。現存する標石80本ほどを見て回り、近くの史跡に寄った。1日のよい散策コースである。
松が枝国際観光埠頭には、大型客船「飛鳥 Ⅱ」が入港中。南山手の高台から眺めた。
各標石の写真と所在地図は、本ブログの「長崎の外国人居留地跡標石」の項を参照。
長崎学さるく20081223 特別企画 客船「飛鳥 Ⅱ」船内さるく探険ツアーの様子は、
お宮さんブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/6056575.html
パソさんブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/minami_kita/58073583.html

外国人居留地の標石(境石・地番標)めぐり (1)  平成20年12月

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外国人居留地の標石(境石・地番標)めぐり (1)  平成20年12月

平成20年12月23日(火 祝日)曇り。外国人居留地の標石(境石・地番標)めぐり。21日が雨のため延期した。参加12人。
湊公園9時半発ー広場場ー館内ー東山手(町並み保存センターで昼食)ー大浦天主堂ー南山手ー東琴平ー浪の平ー水辺の森公園15時着。

(1)が東山手まで。(2)が南山手以降。現存する標石80本ほどを見て回り、近くの史跡に寄った。1日のよい散策コースである。
松が枝国際観光埠頭には、大型客船「飛鳥 Ⅱ」が入港中。南山手の高台から眺めた。
各標石の写真と所在地図は、本ブログの「長崎の外国人居留地跡標石」の項を参照。
長崎学さるく20081223 特別企画 客船「飛鳥 Ⅱ」船内さるく探険ツアーの様子は、
お宮さんブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/6056575.html
パソさんブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/minami_kita/58073583.html

茂木町道路元標  長崎市茂木町

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茂木町道路元標  長崎市茂木町

茂木町が長崎市に編入したのは、昭和37年(1962)。長崎市茂木支所は天草ラインフェリーターミナルの前にあるが、旧茂木町役場は、若菜橋の少し上流の右岸にあった。
現在はその跡地に、茂木商工会館と長崎市消防団第34分団第1部の建物が建っている。

国道324号線に代わった旧県道沿いの道。消防団前の駐車場隅に「茂木町道路元標」が残る。旧町時代の標石。他に刻みがないので、町が設置したものかや、設置年代はわからない。
長崎県庁正門脇には、石垣の中に「道路元標」がある。側面に「国道基点」「昭和35年7月 長崎県」。JR道の尾駅を出て、すぐ左の道路沿いには、同じような「県道基点」の標石を見ている。

「水神神社跡」の標石?  長崎市八幡町

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「水神神社跡」の標石?  長崎市八幡町

「水神神社」は現在、長崎市本河内町の本河内低部水源池下の道路沿いにある。
承応元年(1652)渋江公師が開創。最初、出来大工町にあったが、後に炉粕町に、さらに元文4年(1739)八幡町の銭屋川の倉田水樋の水源付近に移転した。
大正9年(1920)本河内の水源池に近い現在地に移転した(長崎の史跡 南部編)。

ところで、八幡町当時の「水源神社」とは、どこにあったのだろう。紹介したものがない。古絵図を調べるなり、現在の神社に聞けばわかるだろうが、銭屋川の倉田水樋の水源付近とあるから、とにかく付近を訪ねてみた。
近くに「水神湯」(後の八幡湯)という銭湯も、昭和50年代まであったので、この場所も確かめたかった。

「倉田水樋水源跡」の史跡碑は、中島川沿いの伊勢の宮先、「阿弥陀橋」から少し上流の右岸にある。支流の流れ込み(これが水源か)がある角である。
「倉田水樋水源跡」は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1232
横が駐車場となり、駐車場の裏手へ回ると石祠があった。すぐ近くの住家入口前には、古い標石と立石がある。以前から見かけていたが、標石を今回は良く見て、写真にしてきた。
上部の刻字が不明、「……社 有地」と読める。

路地の奥を伝い八幡町本通りへ進むと、また家角と途中の路地に、標石らしい石をあと3個、見た。「八幡町 9」の街区標識下の標石は、最初のと同じである。
今回はここまで。標石を付近でまとめて見た報告。一帯は古い石垣や石段が残り、標石をただの境界柱で終わらせない雰囲気がある。
「水神神社跡」がここだとは、まだわからない。「長崎古今集覧 上巻」436頁の同神社には、「荒神堂右 古鎮道寺遺址」のような字を見る。
現地に近い中尾氏へ、詳しい調査をまた頼んでみたい。「水神湯」も調べ忘れだ。 

長崎の古写真考 目録番号:3883 外国人の野外祝賀パーティー(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3883 外国人の野外祝賀パーティー(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3883 外国人の野外祝賀パーティー(1)
目録番号:3884 外国人の野外祝賀パーティー(2)
目録番号:3885 外国人の野外祝賀パーティー(3)

■ 確認結果

古写真の1枚目は、まだはっきり確認できないが、現在の「長崎グラバー園」出口の坂道が、一番よく似ている。
注視することは、坂下の横道脇に右へ流れている溝。かなり大きな溝なので、現存しているはずである。坂上の奥と左側に、洋館2棟の屋根が見える。

入口に大きく飾られた国旗は、デンマークである。同国との関わりは、大北部電信会社のほか、グラバー園内の旧リンガー住宅に明治時代に住んでいた、イギリス人「フレデリック・リンガー」。
「ホーム・リンガー商会」を設立し、貿易業務、各国商社代理業務などにたずさわり、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの名誉領事にも就任したとある。
祝賀パーティーが、そのときの式だった可能性がある。

古写真の2枚目と3枚目は、野外である。3枚目では高鉾島が見え、奥は香焼島と沖の島の間の海。外国人の遊歩が許された「皇后島」(鼠島)の高台広場に会場を設け、野外祝賀パーティをしたようである。
角度を変えた2枚目の、はるかな山の稜線は、八郎岳尾根縦走路。3枚目の左側に立つ白い洋服の人物が主賓のようで、リンガーに似ている。

昨年夏ごろ3枚目の古写真が、、朝日新聞のシリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。撮影場所を知らせていたのに、「神の島」と説明し掲載されていた。
新聞で紹介するなら、もっと現場へ出かけ古写真を実地確認し、記事にしていただきたい。
最後の写真が、「神の島」の教会から見た場合の高鉾島である。島はこのようにしかならない。

長崎の古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群
目録番号:1003 新地蔵と出島(1)
目録番号:5901 新地蔵と出島(ステレオ写真)(3)
目録番号: 328 大浦海岸通り(1)

■ 確認結果

古写真の1枚目は、新地と梅香崎の埋立地を結んだ当時の「梅ヶ崎橋」。新地湊公園の電車通り側あたりに橋はあったのではないか。

2枚目は、高台からこの「梅ヶ崎橋」がすぐ左下に見える。「梅ケ崎の山手(中新町)からのアングル」と説明している。
3枚目は、新地と出島方面を見たステレオ写真。「梅香崎の丘陵地十人町東側から…眺望したステレオ写真」と説明している。

2枚目と3枚目の古写真を良く見てもらいたい。まったく同じ写真で、3枚目は左側部分をカットしただけである。
2枚目で「梅ヶ崎橋」がすぐ左下に見えるのに、十人町奥となる「中新町」からとはならない。3枚目の説明どおり、「十人町の東側から」が正しいと思われる。
撮影場所は、今の梅香崎郵便局角から坂段を上がる。「天満宮」近くで写したと思われる。
3橋架橋を説明している2枚目の「明治3年」は、「明治2年(1869)」でないか。

古写真の4枚目は、大浦海岸通り。「手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)」と説明している。
「松ヶ枝橋」でないか。建設年代を記すのは、いかにもこの鉄橋?が明治3年に造られたように取られる。ほかの関連作品に、年代の記述はない。

長崎の古写真考 目録番号:5164 中島川と古町橋と光永寺

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5164 中島川と古町橋と光永寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5164 中島川と古町橋と光永寺

■ 確認結果

1枚目の古写真の絵葉書には、下部に「長崎桶屋町」と撮影地を印字している。2枚目の古写真「目録番号:5162 中島川と桃渓橋(1)」は、掲載写真の入れ間違いで、正しくは「中島川と一覧橋と光永寺」となると前項で指摘している。
赤く彩色した寺は、屋根の形や白塀を見ると、両方とも桶屋町なら「光永寺」に間違いない。

「光永寺」を左の岸に挟み、中島川の下流にあるのが「一覧橋」、中島川の上流にあるのが「古町橋」である。
したがって1枚目の古写真の橋は、「古町橋」でなく「一覧橋」である。「目録番号:5164 中島川と一覧橋と光永寺」とならなくてはならない。
「一覧橋」現地説明板の古写真と比較しても、橋の姿は同じのようである。
後ろの2枚の写真は、「古町橋」側から見た「光永寺」。中島川の流れに対して寺の向きが逆となる。