伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地 ( 長崎県 )

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伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地

次は前伊能忠敬研究会入江氏の作成資料。「長崎町の止宿、炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)」跡とは諏訪神社下。現在の炉粕町7番地「立正佼成会長崎教会」の地である。全国的にもこれほど長期間滞在した止宿(ししゅく)は珍しい。NHK大河ドラマは、2年後に「伊能忠敬」が予定されているという。
長崎市観光政策課へ次の内容の「伊能忠敬長崎測量止宿」さるく説明板を早く設置するよう要望しているが、まだ実現しない。
佐世保市ではすでに2014年5月、「伊能忠敬相浦地区測量二百年記念之碑」が建てられている。

「伊能忠敬長崎測量止宿説明文」
伊能忠敬(いのうただたか。測量時は伊能勘解由・かげゆ)は全国測量の内、第八次測量(九州第二次測量)に於いて、文化十年八月十八日(1813年9月12日)から九月二日(9月25日)と九月十六・十七日(10月9・
10日)の16日間、ここに在った大同庵(だいどうあん)を止宿(ししゅく)とした。
この期間、新大工町から測量を始め、海岸線や町中を縦横に測量した。

伊能忠敬『測量日記』  八月十八日(9月12日)
晴天。六っ半頃(午前7時頃)に稲佐郷、又浦を出立。乗船して五っ時後(午前8時過ぎ)に長崎町へ着く。 乙名の春野半兵衛と横瀬半三郎が出る。四っ半頃(午前11時頃)立山役所(現:長崎歴史文化博物館)へ届けに出る。当時(この時)の御奉行遠山左衛門尉(景晋。江戸町奉行遠山金四郎景元の父)の用人の福田仁右衛門と手付の豊田源治左衛門に挨拶する。長崎町の止宿、炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)に一同で泊まる。

伊能忠敬『測量日記』  九月一日(9月24日)
晴天。前と同じ(同所に逗留、地図並びに諸帳を調べる)。 阿蘭陀出島館(この時のオランダ商館長はヘンドリック・ドーフ)、並びに象(セイロン産の象1頭。版画が残されている)を見た。唐館(忠敬の手紙によると、唐船も見学している)を見る。 夜は曇り(夜間の天文測量が出来なかった)。