宮崎県」タグアーカイブ

鍋 谷 橋  都城市安久猪之谷 ( 宮崎県 )

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鍋 谷 橋  都城市安久猪之谷

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。都城市内から日南方面へ国道222号を約17km、現橋の上流に見える。

№216  鍋谷橋
都城市安久猪之谷
市指定有形文化財
平成16年9月8日指定
安楽川支流
橋長:上流側32.7m、下流側38m  橋幅:4.04m(4.64m)  径間:16.9m
架設:明治38年
都城市内から日南方面へ国道222号線を約17Km、現橋の上流に見えます。安楽川は、下流は志布志町に流れており、幾つもの綺麗な石橋が架かっています。

鍋谷(なべたに)橋
「鍋谷橋(現在・二俣橋)は、当時庄内村で請負業をしていた伊地知新七が生活道路橋の工事を引き受け明治38年に完成させた石造りの単一アーチ橋である。高さ20.2m、長さ上流側32.7m、下流側38.0m、幅4.5mは県内有数の規模を誇る。」
都城市教育委員会

油 津 港  日南市油津 ( 宮崎県 )

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油 津 港  日南市油津

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

油 津 港
油津港(あぶらつこう)は、宮崎県日南市にある太平洋に面した港湾。古くは油之津(あぶらのつ)とも呼ばれていた。重要港湾に指定されている。南東に開けた入り江であり東側に大節鼻(尾伏ノ鼻)と呼ばれる岬が伸び、南方海上に小場島と大島(日向大島)が並ぶ。

主な施設

堀川運河  江戸時代に地域の名産品である飫肥杉を輸送するために掘削された運河。石造アーチ橋などが残されており観光名所になっている。
宮崎海上保安部(第十管区海上保安本部宮崎海上保安部)  1948年(昭和23年)5月、海上保安庁の設立に伴い油津海上保安署が設置され、1950年(昭和25年)6月に油津海上保安部に昇格、2007年(平成19年)4月に宮崎海上保安部へ改称した。
チップヤード  港の南東部にあり日南市内の製紙工場で使用する木材チップを荷揚げ・保管するための集積所。木材チップ及び紙製品は油津港で取り扱う貨物の主要品目である。

歴史

宮崎県宮崎市田野町甲の天建神社縁起書に、百済の王が油津に漂着した伝説が記載されている。遣唐使の時代から日本と中国大陸をつなぐ貿易の中継地であり、倭寇の拠点としても利用されていた。戦国時代においては港の支配権をめぐって伊東氏と島津氏が争っていたが、羽柴秀吉の九州征伐以降は伊東氏による支配が確立した。南蛮貿易における寄港地の一つであり、当時ポルトガル人が使用していた海図にも記載されている。文禄の役では伊東氏の拠点港として利用された。

江戸時代に入ると南蛮貿易は終息したが、代わって需要が高まった木材(飫肥杉)の積出港となった。木材運搬のために北方を流れる広渡川と油津港とを結ぶ堀川運河が飫肥藩によって掘削され、1686年(貞享3年)に完成している。油津港の北に広がる日向灘は当時の海上交通における難所であり、風見(天候調査)のための長期滞在者が多く港町として賑わいを見せた。歌川広重の名所絵『六十餘州名所圖會』に「日向油津ノ湊飫肥大島」として描かれている。

1882年(明治15年)頃に近畿地方へ直行する航路が開かれ、南九州における輸送拠点の一つとなった。1900年(明治33年)頃からブリ漁が盛んとなり、1913年(大正2年)に漁港の指定を受けた。1933年(昭和8年)から1940年(昭和15年)にかけてマグロ漁が盛んとなり日本各地から約500隻の漁船が集まり、1日の水揚げ金額が1億円に達したこともあった。この時期に防波堤や岸壁の整備が進んでいる。太平洋戦争において特攻兵器回天が配備された。

1954年(昭和29年)9月、台風13号の強風によって港内に停泊していた船29隻が沈没し死者10名の被害が発生した。これをきっかけとして整備された外洋防波堤において日本で初めてテトラポッドが使用されている。1960年(昭和35年)5月24日早朝、チリ地震津波により潮位が約1.5m変動し木材や漁船が流出する被害を受けた。1963年(昭和38年)に港の東側に石油基地が建設された。1973年(昭和48年)以降、宮崎港の整備が進むのに伴い、輸送拠点としての地位を失いつつある。

参考文献
・日南市産業活性化協議会編 『油津 −海と光と風と−』 鉱脈社、1993年。
・日南市史編さん室編 『日南市誌』 日南市、2005年。

堀川橋(乙姫橋)  日南市油津 ( 宮崎県 )

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堀川橋(乙姫橋)  日南市油津

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。日南市街の南東部、国道222号が国道220号と合流する春日町交差点から堀川運河沿いへ入る。堀川運河に面して祀られている吾平津神社(乙姫神社)前に架かる石橋で、「乙姫橋」とも呼ばれる。

№101 堀川橋(乙姫橋)

日南市油津
国登録有形文化財
堀川運河
橋長:33.0m  橋幅:4.0m  径間:22.0m  拱矢:8.5m
架橋:明治36年(1903)8月
石工:石井文吉
旧飫肥鵜戸線
国道220号線を宮崎方面から市内に入り、春日町交差点で国道222号線と交差しますが、直進して約150m先

堀川橋(乙姫橋) 登録有形文化財
「明治36年(1903)、石工の石井文吉が、堀川運河の油律上町と対岸の材木町を渡すとともに、吾平津神社の参道橋の役割も兼ねて架けた単アーチの石橋である。長さ21m(欄干の両端間)、幅5.65mを計り、現存する石橋としては南那珂地区最大の規模を誇る。
江戸時代前期に掘られた堀川運河とともに油律を代表する景観である。平成5年(1993)には、映画『男はつらいよシリーズ第45作−寅次郎の青春−』の舞台となった。」

高城町穂満坊の石敢當 (七日市の石敢當)  都城市高城町穂満坊 ( 宮崎県 )

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高城町穂満坊の石敢當(七日市の石敢當)  都城市高城町穂満坊

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市高城町市街地の県道47号から高城小学校の南側まで入る。所在地図を参照。「修栄工業」の看板があった。
「民族信仰 日本の石敢當」には、所在地が「高城町大井手七日市74」とあるのは、「高城町穂満坊七日市74」の間違いであろう。

高城町穂満坊の石敢當(七日市の石敢當) たかじょう、ひまんぼう
都城市 石敢當(自然石、凝灰岩) 高90㎝,幅70㎝ 江戸期? 市教委(高城の石塔・石碑・石仏たち) 山崎家のブロック塀中に割れた石片を継いで修復されている 藩政時代の高城地頭館を囲む武家屋敷外入口の要衝の地点で、薩摩街道七日市の突き当たりにある/旧街道にあるので、江戸期の建立と推定される 3 C

高崎町縄瀬の石敢當2 (蔵元の石敢當)  都城市高崎町縄瀬 ( 宮崎県 )

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高崎町縄瀬の石敢當2 (蔵元の石敢當)  都城市高崎町縄瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号都城市高崎町江平口交差点の2つ東南の三叉路市道を東へ。霧島大橋に向かわず次の三叉路も左折して蔵元へ進む。蔵元バス停の約50m手前、左側の電柱脇に「蔵元の石敢當」が立つ。

高崎町縄瀬の石敢當2 (蔵元の石敢當) たかざき、なわぜ
都城市 (蔵元) 石敢當 高55㎝,幅23㎝,厚13㎝ 文化6(1809) 市教委(高崎町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –

高崎町縄瀬の石敢當1 (小牧の石敢當)  都城市高崎町縄瀬 ( 宮崎県 )

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高崎町縄瀬の石敢當1 (小牧の石敢當)  都城市高崎町縄瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号都城市高崎町江平口交差点の1つ東南の市道を東へ。県道414号を横切りさらに直進して行くと小牧バス停に着く。左折して橋を渡ると小牧公民館があり、そのすぐ先の左角畑地の一隅に「小牧の石敢當」が立つ。

高崎町縄瀬の石敢當1 (小牧の石敢當) たかざき、なわぜ
都城市 (小牧) 石敢當(自然石) 高70㎝,幅60㎝,厚20㎝ 宝暦6(1756) 市教委(高崎町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 C

高崎町大牟田の石敢當 (原村の石敢當)  都城市高崎町大牟田 ( 宮崎県 )

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高崎町大牟田の石敢當 (原村の石敢當)  都城市高崎町大牟田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号都城市高崎町切藤交差点近くの切藤バスから市道を南に下ると、原村営農研修館とその奥に原村公民館がある。原村営農研修館の右手フェンス角に、ブロック塀で囲まれた移設された「原村の石敢當」が祀られている。

高崎町大牟田の石敢當 (原村の石敢當) たかざき、おおむた
都城市 (原村) 石敢當 高34㎝,幅33㎝ 天保3(1832) 市教委(高崎町史) 移設 (正面)「石敢當」 2 –

高崎町前田の里程標  都城市高崎町前田 ( 宮崎県 )

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高崎町前田の里程標  都城市高崎町前田

前記事の都城市高崎町前田の石敢當(谷川の石敢當)を訪ねた際に見かけた里程標。国道221号都城市前田交差点から、旧国道に入り約1kmの右側にあった。
気まぐれトンビ:高崎町前田の里程標 – livedoor Blog(ブログ)による2013年08月18日記事は、次のとおり。

高崎町前田の里程標

60基目となる里程標は、都城市高崎町前田の旧国道沿いに立っていました。
所在地…都城市高崎町前田607‐6付近。
詳細…国道221号都城市前田交差点から、旧国道に入り約1キロの右側。
西→東方向
旧国道西側からの画像。里程標は中央付近左寄りに立っています。
里程標(表)
距宮崎元標拾九(里)…
深く埋まっていますが、恐らく19里の里程標でしょう。7.7キロ先に立つ小林市堤の21里とも線で繋がりました。
※20里は西諸県郡高原町西麓3043付近に立っていたと思われます。
高さ 71.2センチメートル
幅  24.2センチメートル
里程標(右)
高崎ヘ ……
右面は判読困難です。
里程標(左)
高原ヘ 参拾町拾四間壹…
里程標(裏)
明治三十六年八月

高崎町前田の石敢當 (谷川の石敢當) ほか  都城市高崎町 ( 宮崎県 )

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高崎町前田の石敢當 (谷川の石敢當) ほか  都城市高崎町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。都城市高崎町の現地を私が訪ねたかぎり、いずれも所在不明となっているようだったので、都城市教育委員会に調査をお願いしたい。
後ろに「民族信仰 日本の石敢當」慶友社2004年刊と、「高崎町史」の関係頁を載せる。 

高崎町前田の石敢當 (谷川の石敢當) たかざき、まえだ
都城市 谷川公民館・前 石敢當(砂岩) 高25㎝,15㎝角 江戸中期 日本の石敢當p131/市教委(高崎町史) 移設/砥石に使用されたらしく背部は磨り減っている (正面)「(梵字)石敢當」 3 –

(谷川の石敢當)は、大字前田字谷川の谷川自治会公民館前にあるとあるが、現在地の新しい公民館前のは、石敢當ではなかった。地元で調べると、公民館は以前、谷川バス停角の現在、草地の駐車場のところにあった。近くの田の神にある集落案内板によると、確かにここに「石敢當」と表示されているが、その後、この石敢當がどうなったか、聞き込みは得られなかった。(写真1〜6)

高崎町大牟田の石敢當3 (荒場の石敢當) たかざき、おおむた
都城市 (荒場) 石敢當(凝灰岩) 高48㎝,幅25㎝,厚10㎝ 江戸末期 日本の石敢當 p130/市教委(高崎町史) (正面)「石敢當」 –

(荒場の石敢當)は、大字大牟田字4520の荒場義雄家の氏神様と並立しているとある。荒場の入口の該当地番を訪ねるが、名前が変わり、近所で聞き込みが得られなかった。

高崎町大牟田の石敢當2 (西村の石敢當) たかざき、おおむた 都城市 (西村) 石敢當 高55㎝,幅24㎝,厚20㎝ 江戸後期 日本の石敢當 p130/市教委(高崎町史) (正面)「奉修石敢當」 –

(西村の石敢當)は、大字大牟田字西村前3670 福原家の屋敷内(三叉路突き当たり)にあるとあるが、ここも新住宅地となっているようで、石敢當の確認はできなかった。(写真7〜8)

野尻城跡の井戸  小林市野尻町東麓  ( 宮崎県 )

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野尻城跡の井戸  小林市野尻町東麓 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。小林市の東方、国道268号野尻町光雲寺角の東仲町交差点から県道42号に入り、約1kmほど南下すると、右側の市道分岐に「野尻城跡の井戸」の案内標識がある。右折してこの道を城之下橋を渡り登って行く。田に出て右側の農道を案内標識によりUターンするように登って進むと、やがて「野尻城跡の井戸」に着く。

野尻城跡の井戸 のじり
小林市 野尻町東麓 石井戸 中世 市史跡 市教委 枠石は江戸期のもの 野尻城・新城の第2郭のほぼ中央(居館跡と推定)にある井戸 3 C

現地説明板は、次のとおり。

市指定史跡 野尻城井戸跡   指定年月日 平成元年11月4日
この井戸跡は、南北朝時代から天文年間(戦国時代の末期)に造られた貴重な遺構である。
伊東48城の1つで、西諸地域における守備の拠点としての役割を持っていた野尻城「新城」の第二郭のほぼ中央にあり、素掘りの井戸で、井桁もなく江戸初期の廃城令後も数百年放置されたままであったが、小林市(旧野尻町)教育委員会が、往時の古井戸の役割を想像し、昭和62年11月に現在の保存状態に改善したものである。
この井戸が存在する位置などから、城内の居住者たちに清涼な飲料水を供給したと推察されるが、井戸内の遺物や水質など詳細は不明である。
平成26年10月  小林市教育委員会