関寛斎一行は野母権現山へ行ったか

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関寛斎一行は野母権現山へ行ったか

野母崎町「野母崎町郷土誌」改訂版 昭和61年刊の野母崎町町史年表264頁によると「1861 文久1 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)4月4日 棚瀬を見て野母権現山へ行く」とある。遠見番所は安政6年(1859)の開港ですでに休止していたか、この番所の廃止は明治元年(1868)である。
関寛斎日記は紛らわしい書き方をしているが、記述はこうである。

「船塲に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由って只一望のみにて漁家に喫茶す、此の處二百許り漁師住めり南西に高山あり四五年前には絶えず此の頂上にて望遠鏡を用ひ黒船を見張せしといふ、長崎迄一望中にあり且つよく遠方を見得て殊に景地なり。五つ半時(午前9時)發足し堂山の西を通り高濱に出て」

「只一望」が前にきて以下権現山の説明がある。脇岬を朝出発して野母を9時位に出る船に乗るつもりだったが、北風が強く船は出なかった。漁家に寄って喫茶しながら権現山を望んだだけのようである。山頂への往復は2時間かかり、天気のよい日でなく、時間的に無理であろう。