三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

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三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

17頁  〔写真説明〕   宮崎橋とせんたく石のこと
宮崎橋が木造だったころは川の中心に柱が建っていた。この柱は流れて来たゴミがひっかかり、橋の下はくぼ地になって魚の住みかになっていた。フナ、ハイネ(ハヤ)、ラックウ(ザリガニ)など子供の最高のつり場でした。
橋より20mほど下流、(工事中の仮橋の根元付近)には大きな板石があった。宮崎部落の洗たく場になっており、五、六人の人がならんで洗たくしていた。各家庭に洗濯機がはいってくるまでこの洗たく石は使われていた。

■確認結果

川原本村から台場があった蛭子崎を回ると県道は下りとなり、宮崎川を宮崎橋で渡り宮崎集落へ入る。現在の宮崎橋は、「昭和57年7月」架と銘板がある。
古写真は昭和30年頃からの宮崎橋の変遷を写している。2枚目の工事途中の古写真は「昭和57年ごろ」が正しいようである。

明治時代の「川原道」については、昭和58年3月長崎県教育委員会発行の長崎県文化財調査報告書第63集「橘湾の漁労習俗」(香焼図書館に蔵書あり)交通の項に、地元古老から聴き取った話として記述があり、次のとおり「三和町郷土誌」陸上の交通458頁が引用している。
同頁には、川原道のほか蚊焼道、布巻道、藤田尾道、千々道、深堀道の引用文がある。

(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷へでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋を渡り、宮崎へ入る約三・五キロの道をいう。
石橋は郷土誌編集員の高崎市郎先生に生前、話を確かめたことがあるが、簡単な桁橋だったそうである。

ところで私の探しものは「洗たく石」。長靴を履いて干潮時、宮崎橋下の川に行ってみた。川底はブルドーザーで均され、「洗たく石」は完全になくなっているが、写真の通り一部、痕跡を残しているよう岩面が川底にあった。

近くの奥さんに聞くと、やはり数人が同時に洗たくできた大きな板石(岩)だった。川の工事で壊され、後はどうなったか判らないそうである。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋」も、この「洗たく石」(岩)を飛び石渡りした程度のものではなかろうか。