長崎の古写真考 目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港
〔画像解説〕
長崎市街地の対岸に造られた官営飽ノ浦製鉄所付近から、長崎港越しに、古河町、浪の平町、南山手を遠望した写真である。明治初期の撮影である。写真右の松の木は、目録番号3238(整理番号66-19)の写真において、ちょん髷の人物が座っている写真のものと同じものである。従って写真右下の街灯のある桟橋は、官営飽ノ浦製鉄所のものである。そのために、桟橋は端正な造りになっている。その向こうのに見えている建物が、製鉄所の建物である。対岸に目を移すと、写真左に外輪船が停泊している。その向こうの山腹が、南山手外国人居留地とその南限である。船の船首の向こうが、ロシア領事館とロシア教会があった場所で、上に登る坂道が直線で見えている。その左上に松の木の影が見えているが、そこがグラバー住宅である。海岸線は、左から浪の平町、古河町である。南山手居留地の上の山は鍋冠山で、頂上近くまで耕し尽くされている。

■ 確認結果

上野彦馬撮影とされているが、近年「明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場(海上?)には天皇のお召し艦が見える」と考えられる古写真の1枚。
この古写真の撮影場所は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

ここで取り上げるのは、画像解説の最後に説明している「南山手居留地の上の山は鍋冠山で、頂上近くまで耕し尽くされている」か。超高精細画像はそうなっているのだろうか。説明に少し飛躍が感じられるので、たいしたことではないが、あえてふれておきたい。
現在の写真は、撮影場所と思われる飽の浦恵美須神社近くの高台岩場からは、三菱造船所工場の高い屋根などのため、長崎港が見えないので、ほぼ同じ向きで標高が高い飽の浦変電所近くから写した。現在でも鍋冠山の頂上近くまで、耕し尽くされていない。

画像説明は、明治5年(1872)頃の話である。耕やされていると見えるのは、鍋冠山の中腹位までで、そこが南山手町と浪の平町の南山手居留地一帯の区域と思われる。まだ建物が建っていない空地が多かったのではないか。
外国人居留地の建設は、長崎の開港前の安政6年(1859)8月から始まった。最初の居留地建設は、大浦湾の埋立と東山手・南山手の造成であった。その後、下り松居留地、梅香崎居留地の埋立を行い、さらに新地蔵所、出島を組込み、明治3年(1870)に外国人居留地は完成した。