長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2871 高野平からの小島山手遠望
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:2871 高野平からの小島山手遠望
〔画像解説〕
崇福寺裏山中腹の高野平郷から、長崎市東側斜面越しに長崎港を撮影した写真である。明治20年代の写真である。写真下の町並みは油屋町で、寺院と墓地は正覚寺のものである。正覚寺の向こうの町並みは、寄合町である。写真右下の一画が丸山町である。写真右の町並みは、船大工町付近であり、右隅の林の中に見えている寺院は大徳寺である。写真右の中央の丘の上にある赤い建物は明治22年(1889)4月に竣工した長崎病院である。その左の一画の赤い建物は長崎県立医学校(後の長崎大学医学部)の建物、明治39年(1906)6月佐古尋常高等小学校になる。丘に隠れた向こうに唐人屋敷がある。その先の町並みが十善寺である。十善寺地区の山上に見えている、黄色と赤の洋館のある地区は東山手外国人居留地である。その先の白い先頭の見える建物が大浦天主堂であり、一本の松が飛び出した所の下にグラバー邸がある。明治中期の長崎市街の東側を詳細に撮影した写真である。
■ 確認結果
これから撮影場所が「風頭山」関係となっている古写真を数点取り上げ、気付いたことを説明してみたい。目録番号:2871「高野平からの小島山手遠望」は、長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の41頁に同じ古写真が掲載されている。138頁の図版解説は次のとおり。
24 風頭山から小島・南山手を遠望〔彩色〕 長崎大学附属図書館所蔵
風頭山の頂上付近から撮影したもの。手前に玉帯川(銅座川の上流部)や茂木街道沿いの油屋、丸山、寄合などの各町と小島郷の家並みが広がる。中央に正覚寺とその墓地がみえ、右端の漆喰で固めた大きな屋根は明治19年に建設された二宮病院(のちの本石灰町互助会館)である。そこから右上に延びる道路(現在の大崎神社から丸山交番に至る通り)の上には大徳寺跡の大楠が繁り、その左手には明治12年に新築された長崎病院(明治36年に浦上山里村に移転)の建物群がみえる。さらにその向こうには館内・十人町の密集したすり鉢状の家並みと、東山手の丘上4番地の2階建て洋館2棟や遠くに南山手の大浦天主堂やグラバー邸などが望まれる。大変珍しい構図の写真である。明治31年に新築された海星学園本部がまだないことからすれば、その直前の昭和20年代末頃の撮影とみられる。
古写真集の解説は「風頭山の頂上付近から撮影したもの」となっているのに、なぜ「高野平からの」撮影となるのだろう。「高野平」とは、現在の「高平町」一帯。「崇福寺裏山中腹」付近も指すが、古写真手前に写っている尾根が、高野平の中腹と思われる。
まず、写真中央に写る東小島町正覚寺から風頭山方面を見上げる。山頂が直上に見えるとおり、この古写真は風頭山山頂から撮影されたものであろう。
次が風頭山の山頂広場から、桜木立や山頂に迫った住家の屋根越しに見た光景。長崎港口の島は香焼島、右上が伊王島となる。天門峰の奥に重なるように伊王島の遠見山が薄く見える。
山頂から正覚寺を確認できないので、前記の住家の下の方へ小川ハタ屋前から奥へ行った道路に入り石段を下る。ここなら正覚寺と左手の山並みが見える。鍋冠山と星取山の鞍部、二本松の奥の山は大久保山で、そのまた左奥には深堀城山が頭だけ見せる。
したがって、この古写真は「風頭山の山頂」から撮影したものに間違いないと考えられる。坂本龍馬像の展望所の方へ行くと、伊王島が見えなくなる。最後の写真は、反対に高野平の一番上となるホテル矢太樓から見た場合。正覚寺など右へ寄りすぎ光景は合わない。
大徳寺跡は大楠は確認できるが、「右隅の林の中に見えている寺院は大徳寺である」とはならないのではないか。大徳寺は檀家を持たず、唐船からの寄付で成り立っていた。唐船貿易が衰退した幕末には寄付もなくなり財政が窮乏、什器を切り売りするほどになり、明治維新により廃寺になった。本堂は延命寺に、鐘楼は三宝寺に売り払われ、大徳寺の遺物は唐船維纜石を使った石灯篭のみと言われる。
寺院が見えるとすれば、梅香崎天満宮か大徳寺跡に建てられた大楠神社ではないだろうか。