長崎の古写真考 目録番号:5287 石橋と長崎市街

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5287 石橋と長崎市街

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。目録番号の順は不同である。

目録番号:5287 石橋と長崎市街
〔画像解説〕
擬宝殊を持つ親柱の眼鏡橋と橋の中央付近から旧西古川町・旧磨屋町の通りと、後ろに風頭山を撮影したステレオ写真の画面である。眼鏡橋は寛永11年(1634)、旧町名の酒屋町と西古川町(現栄町-古川町)間に興福寺第2代住持である唐僧「黙子如定(もくすにょじょう)」によって、わが国最初の唐風の石橋として架設された。眼鏡橋の建設は、その後中島川の各通りに次々と唐風石橋が架設される契機となり、中島川に一の瀬橋他十数橋の石橋が架設された。擬宝殊を持つ親柱の石橋は眼鏡橋の他に、一の瀬橋・高麗橋・大手橋・袋橋がある。記録によれば、正保4年(1647)の洪水で流失し、慶安元年(1648)平戸の僧好夢が一度修築したと伝えられる。その後数度中島川は洪水を起こしているが、破損はしても崩落することはなかった。昭和57年(1982)の長崎大水害では橋のア-チ部分上部を流失するという大被害を受けたが、元の橋に復元されている。

■ 確認結果

擬宝殊を持つ親柱の石橋の中でも、長崎の石橋というと「眼鏡橋」が有名だから、「眼鏡橋」と解説されたと思われるが、旧西古川町・旧磨屋町通りの建て込んだ家並みはないし、後ろに風頭山が見えない。
突きあたった寺町通りの上には、晧台寺、寺町墓地と高い風頭山の尾根がなければならないので、「眼鏡橋」からの光景か疑問だった。
逆に「眼鏡橋」から栄町・桜町方面を望んだ光景が考えられ、外の石橋の可能性もあり調査中としていた。このたび、この石橋は「眼鏡橋」に間違いないと確信が持てた。ただし、方向は解説とは逆の栄町・桜町方面である。

現在の「眼鏡橋」中央に立って、旧西古川・磨屋町方面を見た場合が最初の写真。古写真と背後の山並みがまったく合わない。次が逆の栄町・桜町方面を見た場合の写真。ビルが建て込み、背後の山並みが見えないが、これは眼鏡橋通りの延長線上にある寺町晧台寺墓地から確認した。背後の山並みは、古写真は薄く見にくいが、稲佐山から春木町方面へ下る尾根と思われる。目線は橋上だから山並みは低く、また遠いから薄くなる。

今度は石橋本体の左面欄干と擬宝殊を見てみる。現在の橋が古写真とまったく同じ造りと向きになっていることがわかるだろう。右側の角は現在、カステラの匠寛堂だが、架設当時はここに「堺酒」という酒屋があったようだ。そのため「酒屋町」だろう。
眼鏡橋川端通りに貴重な古絵図と古写真が、陶板により展示されていて確認した。明治中期の古写真では、平屋で玄関口が斜めにカットされ、戸の造りが同じと感じられたので、対比のため関係展示品を掲げた。