高城山日見城跡から網場金比羅岳へ 平成21年11月
平成21年11月15日(日)曇り。古城跡、高城山日見城跡から網場金比羅岳(標高278m)へ。史跡探訪を兼ねた山歩き。参加10人。
網場道バス停9時30分発—日見宿跡ー日見霊園—高城山日見城跡—林道出合ー網場金比羅岳下広場(昼食)—網場金比羅岳ー住吉神社下山路ー長崎総合科学大学前ー網場市民プール前14時10分着(徒歩距離 約10km)
長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査報告書」平成3年5月20〜22頁による報告は次のとおり。1枚目写真の中央に見える山が、高城山と呼ばれる日見城跡。
築城の時代は、南北朝とか中世期、長崎甚左衛門が深堀方を警戒するため築いたとの説がある。日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年8月刊には、重籠へ通じる昔の連絡道が昭和初期まで歩けたとの寄稿記事*があり踏査に行ったのだが、高城山先の稜線は植林地となり、はっきりしなかった。 *高城大権現 https://misakimichi.com/archives/1764
山腹を巻く林道へ出たところで、網場金比羅岳に林道をそのまま左へ向かった。きよう歩いたルートには、給水タンク上の山道及び網場金比羅岳山頂に、「長崎要塞区域標」が2本見られる。下山路の大木は栗。日見地区公民館まつりの日見中学校コッコッデショ。
日見城跡 所在地 長崎市網場、宿町 調査年月日 昭和59.5.3
1 所在地及び周辺
東は橘湾に浮かぶ牧島を遠望し、眼下に網場漁港、北は長崎から諫早へ通ずる曲がりくねった国道、谷間に宿町の住宅街、南又は西側は、深い山に囲まれている。網場町から日吉青年の家、田手原方向へ通ずる旧道に通じている。
当城は長崎水族館付近より登り、途中給水タンク、テレビ塔付近を通り山の尾根に登りつめた標高210mの地点にある。
2 遺構の状況
この山は山頂付近に全然広場がなく平均して約5mの尾根が北から南へ連なり、東又は西側斜面は急な傾斜になっている。
本丸跡と考えられるところは尾根が一部分広くなったところで、長さ約100m、幅は広いところで、17mある。南側に尾根を遮断するように盛り上がった自然地形の岩盤があり、岩盤南側に空堀が1本、更に南側30mのところにも又1本の空堀があるが、今では埋まった状態で浅くなっている。又尾根上より東側方向へ約37m下に土を掻下げて幅1.5m、長さ253mの曲輪が設けられている。
現在給水タンクが据え付けられている広場は幅約40m、長さ約40mあり、出丸的性格の場所である。テレビ塔が建てられている約50㎡の広場が見張所跡であろうと想像される。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/22244199.html
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9513114.html