長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

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長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

長崎文献叢書「長崎名勝図絵」丹羽漢吉氏訳著(長崎文献社 昭和49年発行)79頁に、「崇玄観」(すうげんかん)の編述があったから、関係部分を抜粋する。
文献社序によると、「長崎名勝図絵」は、長崎奉行の命を承り、当時長崎聖堂助教の儒者らが編述し、執筆は文化、文政年間(1804−30)であったと思われる、とある。
以下は、図絵「◎巻之二上 南邊之部」の編述。茂木村田上を順を追い、説明しているのだろう。

117 合戦場  茂木村の街道、田上峠にある。高く平らにひらけて、遠望がきくので、昔ここを茂木口の要路として、番所を設け、警備の者を置き、物見をさせた。長崎氏の所領時代に、深堀方の密使を捕えたなどというのは、ここである。故に合戦場といった。一説では、砲術の練習場であったから、火箭場(かせんば)といったのが訛ったともいう。どちらが本当か知らないが、あとの説は後世の人が作った話のように思われる。近年は春になると、凧揚げの場所となっている。

118 石動山観音寺  田上村にある。臨済宗黄檗派の禅宗で、天洲和尚の開基とする。天洲は隠元の法孫である。元禄年中(1688−1703)天草代官服部六左衛門が、長崎に近い所に、一寺を建立したいと天洲に相談した。天洲は茂木村がよかろうと答えた。その頃教存という真言僧が、ここに小堂を建てて、祈祷所としていた。天洲はこれを譲り受けて再興し、石動山観音寺と称した。近年は頽廃している。本尊観世音像は唐作。他にも像があり、又、即非や雪广筆の額、聠がある。寺の右の方、石段を上って石の小祠があり、開山天洲の立像がある。鐘は〔銘文は略す〕元禄十三年(1700)天洲の時、安山彌兵衛が鋳造した。

119 楊柳泉  観音寺の林中にある。島原城主高力左近将監が雄浦に別業を持っていて、ここに来た時は必ずこの泉の水で茶を煮たが、味が秀れていた。名づけて楊柳泉という。

120 松原山田上寺  田上松林の中にある。寛永年中僧九誉残岌が建てた。浄土宗である。高力氏が寺領四石を附したことがあった。

121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕

122 千歳亭  向井去来の営むところである。去来は京都から来往して、長崎ではここに住んだ。一説によると、齢百歳に近い老尼がいて、去来はこの老尼のために、これを建てたともいう。今その趾は判らない。〔長崎先民伝及び五升庵文草の去来に関する項があるが、ここには略す〕

次は、もう茂木村の中に入って、「123 石の御前」へと続く。したがって、掲載順からこの「121 崇玄観」は、田上の「観音寺、田上寺、千歳亭あたり」にあったと、推測するべきではないだろうか。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、江戸期の1820年前後の風景と見られる。日本唯一の道教の寺とされる「崇玄観」が、大浦「丸尾神社」一帯にあったとするには、考えにくい。
「崇玄観」はあくまで田上付近にあり、「長崎名勝図絵」の執筆当時、すでに「廃絶歳久しく、その趾は不明である」と編述している。

大浦「丸尾神社」一帯とする違いは、絵図の「星取山」の見誤りだろう。この山は正しくは「唐八景」となり、右の山が「星取山」と考えられる。現在の弥生町「高台の旧峠の場所」(長崎女子短大附属幼稚園グランドあたり)から描いたとすると、はっきり対面に見えるのは、「観音寺」(明治維新後、廃寺。現在は「徳三寺」が建っている)の建物だったのではないだろうか。
今後の考証を待ちたい。

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3908

コメントにある川原慶賀「稲佐山からの眺望」(写真を追加)は、私の手持ち写真で確認したところ、現在の稲佐山展望台のところから描かれているのに、間違いはないようです。