月別アーカイブ: 2008年2月

諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

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諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

平成17年春、長崎市の大久保山から戸町岳に残る大村藩と佐賀藩の藩境石塚を、私たちが調査した。結果は、研究レポート第2集やこのブログ先項に載せている。
この時、最近調査された近郊の藩境塚で、「森山町郷土誌」から諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚の例を、概略で次のとおり紹介していた。

(資料4) 森山町郷土誌 光富 博氏稿「諫早史談会 森山探訪資料」 平成16年  185〜188頁
(3)諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚
藩境に石で築かれた御境塚が森山町・愛野町合同調査(註1)により、諫早領唐比村と島原領愛津村の藩境に存在することが確認された。合同調査によると御境塚は日吉神社の鳥居わきの山中に南東の方向へ五七五mに渡って分布している。諫早領の御境塚は円形で十八基、島原藩の塚は四角形で十三基、合計三十一基の御境塚が残されている。この外に潰れた四角形の御境塚ニ基が残っている。
この御境塚はいつ築かれたのか不明であるが、安永八年(1879)、双方の境に諫早領と島原領より御境塚ニヶ所を新規に築き、道の終点に双方より石を一つ宛埋めて中心の目印とした。この塚ニヶ所の上に杉壱本宛植えて双方の境目とした。(註2)
この御境塚に関係する記事が『日記』(註3)の安政四年(1857)六月十一日の条にみえる。この記事を読み下しに直して次に掲げておく。(略)
註(1)平成十五年四月九日、「藩境石塚」について、森山町教育委員会,森山町郷土誌編纂歴史部会及び愛野町教育委員会、愛野町郷土誌学習会による合同調査を実施した。
(2)『日記』安永八年九月ニ十一日の条。(諫早市立諫早図書館蔵)
(3)『日記』安政四年丁巳五月ヨリ七月迄。(諫早市立諫早図書館蔵)

ここの藩境石塚は、一度は見ておきたかった。思い立って平成20年2月23日、愛野町の現地を訪ねた。国道251号線唐比交差点から愛野の方へ左折し、ほどなく行くと小原バス停がある。右前方の小山に日吉神社があり、山王自然公園として整備されていた。巨石が多いのには驚いた。神体も石である。頂上広場に展望台があった。

藩境石塚は、ここにはない。公園入口の鳥居のところからすぐ右方へ分岐する広い車道があり、行くと「NER PLUS ナイロン(株)」の正門でつき当たり。この会社の敷地外周の山中に藩境石塚が残る。公園には、入口にも何の案内図や藩境石塚の道標はない。場所を探すのに苦労した。諌早市で何とかしてほしい。
現地の「藩境石塚」説明板は次のとおり。このあたりで確認されている13基の石塚が、連続して見られる。町の指定文化財。史跡石柱があった。

藩 境 石 塚     愛野町乙字山王2番18

島原藩と諫早藩の境の印として積まれた石塚です。古い記録によると、南北一・五キロに四十二ヵ所となっていますが、今は三十一ヵ所現存しています。
島原藩は、一辺二メートルの□形で十八ヵ所、諫早藩は、一辺二・二メートルの○形で十三ヵ所確認されています。
石積みの高さは、六十〜七十センチメートル、一個の雑石の長さは三十センチメートル前後です。塚間の距離はまちまちで、同間隔ではありません。
このような藩境石塚は、諫早藩と大村藩の藩境である鈴田峠近くの風観岳の山中にもわずかに残っています。
この石塚は、島原藩・有馬晴信の頃、諫早藩・初代龍造寺家晴が諫早に入部後、約四百余年前の天正年間に積まれたものと考えられています。
平成十七年二月一日   愛野町教育委員会

中尾峠から木場峠・現川峠・帆場岳の縦走  平成20年2月

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中尾峠から木場峠・現川峠・帆場岳の縦走  平成20年2月

平成20年2月24日(日)曇ときどき晴。山では少し小雪舞う。中尾峠から木場峠・現川峠・帆場岳の縦走。参加16人。行き先と集合場所を間違え、私は3回立て続けのドジ。罰金を言い渡された。
従って、蛍茶屋を9時45分発。妙相寺から中尾峠への道は、「長崎県の山歩き」林正康先生の推奨コース。敷き石をした坂道は、昔のいかにも街道を偲ばせ、情緒がある。中尾峠11時着。
木場峠グランド上の普賢祠まで行き、11時30分だったが、早い昼食とした。木場峠近くには、「カトリック長崎中央墓地」が完成していた。

昼からは、車道を出たり入ったり。現川峠からは、完全山道である。帆場岳まで1.5Km。コブが続き、登りは厳しい。山頂すぐ手前の木道にかかる取り付きの下道脇に「長崎要塞区域標」「第三十六号」があるのは知られていない。
山頂13時着。帆場岳は、いわゆる「三つ山」。標高506m。航海の船からの目標となったように、眺望がどの方向もよい。写真は一部。皆は元気過ぎ、六枚板へ向かった。私は道の下見にかこつけ、恵の丘へ下った。お蔭でバス停近くでスギの巨木を見つけた。

鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

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鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

鈴田峠は、諌早と大村の境。鈴田峠から風観岳に残る藩境石塚の見事さは、話に聞き、HPにより見ていたので訪ねてみた。鈴田峠から歩くつもりだったが、HPに山道の地図がなく、峠駐車場に何の案内もない。
地元の人も知らず、峠手前「トンネル上」バス停の鈴田峠甘酒まんじゅう屋のところから車道が上がっていると聞いて、バイクで登った。
私は国道34号線から行った。どうもHPは、昔の長崎街道の鈴田峠から話が進んでいるようなのに、今となって気付いた。

途中の集落に石祠があり、au無線塔の先に山道の案内があったが、そのまま頂上近くまで走った。車だと5分位。この一帯の尾根に藩境石塚があった。最大の三角塚は、一辺の長さ4mほどある。まっすぐ歩いて行くとすぐ山頂。
巨石の広場に、「従是東佐嘉領」の文字を削って、転用された「遥拝所」の石柱があった。建立の刻は「明治卅年四月三日 本高来郡破籠井村 総代柿本覚六」か。

あと1つの石碑は「明治三十七、八年日露戦役出征軍人凱旋紀念櫻」。が、桜はなかった。三角点が見あたらず、墓石を間違って書いた思われるHPもあった。山頂から先へ少し下ると、風観さんの石祠があった。下の集落のと同じようだ。後は何もなく引き返した。
HP「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」の説明は次のとおり。これを参考に行ったのだが、「硯石」を見てなく、また同氏のには、別に近くの大村市今村川畔「藩境石(今村川)」があることを知らず、調べそこねた。再度、出かけねばならない。
最後の写真は、国道34号線の諌早市真崎町側から見た風観岳。

HP 「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」

長崎街道の鈴田峠から、大村に向かって右手に入ると、風観岳に上がれる。(01/05/2002)
昔から、大村と諫早の境界である、風観岳(236.7m)。鈴田峠から、風観岳の遥拝所の間で、藩政時代の、国境標識である、藩境石塚を見ることが出来る。
この石が、硯石で、大村諫早間の鈴田峠の目印。この石から、右手に上って行くと、風観岳の山頂に上がれる。途中に分かれ道が、二箇所ほどあるが、上に向かっていけば大丈夫です。
この塚は、三角塚と言い、藩境石塚の一種だが、境界が、「く」の字に折れたところに築かれたもの。風観岳の山頂に行く途中に、遺された、この石塚は、確認された中では、最大のものです。

四角く積まれた、この形の藩境石塚は、角塚といい、諫早(佐賀)藩が築いたものです。また、丸く積まれたものは、大村藩が築いたもので、丸塚と呼ばれます。
藩境石塚は、約30m間隔で、設置されていて、享保10(1725)年に築かれたそうです。
この藩境石塚は、全部で三百数十基が築かれたそうですが、この諫早西部の丘陵地帯に、60基ほどが確認されています。
しかしながら、その多くは戦後の開発や開拓で消失しています。せめて、現在残っているものだけでも、文献資料を伴う、大切な歴史遺産として、遺していきたいですね。

風観岳山頂の東端にある、東方遥拝所の文字が刻まれた石柱があります。この石柱は、もともと、街道の硯石の傍にあって、「従是東佐賀領」と書かれていた、石柱だったそうですが、その文字が削られ、明治時代に、現在の場所に、移されたものです。藩境石も、こんなリサイクルをされるとは、思ってなかったでしょう。
風観岳の山頂は、日露戦争の出征兵士凱旋祈念碑などもあり、上の石柱と併せて、軍国主義時代の遺物になっています。
現地の状況からすれば、昔は、東側に諫早湾や、多良岳連峰を望む、絶景の地だったようですが、現在は、杉の木立に隠れて、遠景を楽しむことは出来ません。

あぐりの丘の風景  長崎市四杖町

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あぐりの丘の風景  長崎市四杖町

平成20年2月19日、長崎市四杖町のあぐりの丘へ行く。リニューアル中。閑散としていた。経営がむつかしいようだ。ラジコンあぐりサーキットと羊・山羊が数頭だけだった。
今なら、駐車料100円・バイク無料のみで遊べる。

長与町に残るアーチ石橋  西彼杵郡長与町岡郷ほか

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長与町に残るアーチ石橋  西彼杵郡長与町岡郷ほか

西彼杵郡長与町の舟津橋からまっすぐに大草へ通じる国道207号線を行く。長与総合公園は埋立地にできているので、これを回り込むように、この手前、浜崎バス停から右折する。前国道の道で下岡バス停で合する。岡郷に残るアーチ石橋の3橋は、この途中で見られる。
「四釜(しかま)橋」は、新四釜橋のすぐ右手。つづいて「おこ川橋上流の橋」は、新おこ川橋のすぐ上流の里道。「旧国道の現役の橋」は、岡バス停手前の「琴の尾岳登山口」標識のある側の川である。拡幅され、左半分は昔の石橋の上に乗っているから、現役の橋となるのだろう。

長与町に残るアーチ石橋について、HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。
岡郷の3橋の外に、「百合野橋」がある。この橋は現在、吉無田郷中尾城公園内の町民文化ホール駐車場脇の小池に移築、復元されている。

写真 1  第 135 番  四釜(しかま)橋   西彼杵郡長与町岡郷前田川内
年代は未確認  長さ 約3.5m 幅員 約2.0m
ほぼ架橋時の状態を残していると思える。旧国道207号線に架かる四釜橋の旧橋。今は役目を終えて上流側に残る。位置的には長与総合グランドの裏手の旧国道に架かる。車は写真の通りゴミステーションに2、3台は駐車できる。

写真 2  第 134 番  おこ川橋上流の橋   西彼杵郡長与町岡郷
年代は未確認  長さ 約7.0m 幅員 約2.5m
コンクリートで拡幅はされているが、充分に姿を楽しめる。
旧国道207号線に架かる「おこ川橋」から上流に50mほど上る。田んぼの中に架かる橋。地元出身の役場にお勤めの久松係長から教えていただいた。
輪石は多少不揃いだがアーチに乱れは見られない。径間5.0mの扁平な橋で乱れが無いのは施工の確かさだろう。この規模の橋なら親柱が有ってもおかしくないのだが周囲には見られなかった。

写真 3  第 136 番  旧国道の現役の橋   西彼杵郡長与町岡郷
年代は未確認  長さ 約5.0m 幅員 約2.5m(拡幅)
約二倍に上流側は拡幅されているので下流からしか見れない。
旧国道207号線に架かる橋。今は下流側で役目を果たして残る現役の石橋。ここから出たら、現在の国道207号線。下岡のバス停がある。

写真 4  第 137 蕃  中尾城公園の百合野橋 西彼杵郡長与町吉無田郷
大正15年9月 長さ 約5.0m 幅員 約2.2m
高田郷の百合野から道路拡張の為に移築したもの。
町の中心部にある中尾城公園は町民文化センターを含め公園整備が進んでいる。この文化センターの正面を過ぎて二つ目の駐車場の奥に移築されている。長与町役場の久松係長様から、すでにアップした橋に引き続き教えていただいた。感謝!

この後、見つかった長与町のアーチ式石橋は、次の記事としている。
○川平道路長与インター入口の「洗濯工房」裏の川に壊れたアーチ式石橋が残る。
https://misakimichi.com/archives/708
○岡郷「四釜橋」及び「旧国道の現役の橋」上流のアーチ式石橋
https://misakimichi.com/archives/2855

あぐりの丘に移築されている畦別当の二号橋  長崎市四杖町

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あぐりの丘に移築されている畦別当の二号橋  長崎市四杖町

前の項でふれたように、畦別当のアーチ石橋「二号橋」は、県道拡幅工事のため解体され、平成10年(1998)に長崎市四杖町”あぐりの丘”の西側池に移築、復元されている。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり

第 106 番 アグリの丘2号橋  アグリの丘街のゾーン
大正中期に架橋された畔別当から移築された橋。 長さ 約7.0m 幅員 約3.0m
五島灘をバックに良い雰囲気です。長崎在住のyoukoさんがメールで教えてくれました。移築に関与された、布袋 厚氏から掲示板で教えていただいた。感謝!!

石橋の検索をやっていて,たまたま貴サイトに行き当たりました.石橋一覧表を拝見したら,あぐりの丘の二号橋のことが調査中と書かれておりました。
この橋は浦上川上流の畦別当橋のシリーズのひとつだったもので,県道拡幅工事に伴って,1996年に解体され,1998年にあぐりの丘内に復元されたものです。

中尾城公園の風景  西彼杵郡長与町吉牟田郷

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中尾城公園の風景  西彼杵郡長与町吉牟田郷

平成20年2月19日、長与町の中尾城公園に行く。中世の山城址。珍しいすべり台は先日、NCCテレビ「ナニコレ珍百景」に映っていた。めざましテレビにも出たとのこと。
HP「ながさき旅ネット」による説明は次のとおり。

中尾城公園  なかおじょうこうえん

中世の山城(中尾城)があったという小高い丘陵地に、自然を生かした公園として、平成9年に整備された。
JR長与駅(公園口)より逆三角形の赤い脚や橋が見えてくるが、中尾城公園のシンボル、エアロブリッジ及びスパイラルスライダーである。このスパイラルスライダーは、らせん状のすべり台で高低差26m(7階建てビルに相当)、全長63mを滑り降りるスリルは子供達をとりこにしている。
また、四季おりおりの花に囲まれ、長与の町を眺望できる公園として、町民に親しまれている。

三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋  長崎市三ツ山町・畦別当町

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三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋  長崎市三ツ山町・畦別当町

浦上川の最上流となる三ツ山・畦別当に残るアーチ石橋が、3橋ある。長崎バイパスに沿った県道45号東長崎長与線の流合橋から畦別当のバス停間。改良前の廃道に残る。
同じ名の新橋が脇に架けられ、そこから前の石橋は川へ下りよく見ないと石橋とわからない。橋の番号は上流側から付けられているようだ。
五号橋は昭和52年撤去されている。新橋は「昭和55年3月架」とあった。二号橋はあぐりの丘の西側池へ移築されている(次項へ)。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。四号橋は「畦別当四号橋」としているが、三ツ山町である。

写真 1  第 54 番  畦別当4号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 7.2m 幅員 3.0m
みつやま4号橋隣の旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道同然の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。なお、この下流の5号橋は昭和52年に撤去となった。

写真 2  第 55 番  畦別当3号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 6.0m 幅員 2.8m
3号橋向かいの旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道同然の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。橋の上は駐車場になっていた。

写真 3  第 56 番  畦別当1号橋  長崎市畦別当町
大正中頃  長さ 5.5m 幅員 2.9m
畦別当橋向かいの旧道に架かる。コンクリートで拡幅して使用していたが、現状は廃道の状態。農作業中の地元の方から付近の石橋について親切に教えていただいた。橋の上は駐車場同様になっていた。蛍の里の看板が有る。

写真 4  現在の五号橋の写真。石橋は昭和52年撤去。

写真 5  あぐりの丘池へ移築された二号橋

薬師院跡のケンポナシ  長崎市平間町

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薬師院跡のケンポナシ  長崎市平間町

国道34号線滝の観音入口から長崎バイパス間ノ瀬IC近くまで行く。大カーブのところで左へ入ると新田頭バス終点へ着く。薬師院跡へは左から上に登る車道があり、長崎バイパスのガード下をくぐってから、すぐ左上の荒れた広場。ブランコがある。この広場を作ったため、石塔などは道路側へ移したらしい。Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。
最後の写真は、タウン誌すまいる東長崎「ひがなが瓦ばん」第18号(2008.4−5)に掲載された記事。

ケンポナシの大木

長崎市平間町・間の瀬の薬師院跡に、ケンポナシの大木がある。ブランコのある小さな広場に2本ある。入口そばに1本( 幹周り1.79m、樹高21m )。イヌマキの側に1本( 幹周り2.35m、樹高24m )。 いずれも樹齢は不詳。ケンポナシの大木として貴重。1月中旬、果実をつけた肉質の果柄があちこちに落ちていた。薬師院跡まで車で行くことができる。

なお、この木の発見した下田尚昌氏のいきさつは、次のとおり。長崎歴史文化協会「ながさきの空 No.11」平成15年4月5日発行に掲載がある。

東長崎(矢上)間ノ瀬・新田頭にあるケンポナシの大木   下 田 尚 昌

昨年7月「第15回ながさき巨樹を見る集い」が東長崎地域で実施された。その準備で6月頃より約20か所の下調べをした折、矢上神社の宮司より貴重木のケンポナシ(クロウメモドキ科)が境内にあると知らされ、しかもシーボルトが江戸参府(1826年)のとき、見たのではないかと聞き、さっそく、シーボルト記念館へ出向く。担当学芸委員が出張、後日関係資料数枚を送付していただいた。
上記のことを、県薬草会長高橋貞夫氏(元中学校長)に連絡。同氏著「長崎の薬草」に記載されていると指示あり、「自分は故外山三郎長大名誉教授より戦時中矢上地域にあると聞き、今まで捜していた。それが矢上神社境内にあるとは」と驚かれ、さっそく、自宅に育ているケンポナシの写真数枚を送っていただいた。後日先生は92才の老体にむち打って見学に出かけられ、私に電話連絡された。

7月15日(日)、東長崎地域の巨樹を見る集いには、ケンポナシがある関係か全国巨木の会長、伊藤秀三(長大名誉教授)、佐賀県から2名計25名で調査。その時、会長さんは下調べのケンポナシ(幹周り0.97m、樹高9.0m)より大きいのを同境内で見つけられた。
昨年5月下旬、東公民館で「わが町の歴史散歩」織田武人講師案内で、県指定名勝の地となっている「滝の観音」の上手、長崎バイパスの上り車線、間ノ瀬インター付近の山側薬師院(元禄元年〈1688〉滝の観音開基、鐵巌和尚の法子一有建立)の跡地にケンポナシの巨木2本があることを偶然にも見つけた。
さっそく、「県巨樹を見る集い」の世話人、宮崎正隆氏(前諫高理科教諭)に連絡、5月28日滝の観音松本普成住職も同席、測定した結果は、幹周り2.35m、樹高24mと、幹周り1.79m、樹高21mの2本、どちらも樹の高さが20mを超しており、隣接して植え込まれているイヌマキの大木以上に大きな枝を伸ばして成長し、また樹勢も極めて良好であった。松本住職の話しでは、先年の長崎水害で寺の資料等は流されたので、いつごろ植えられたか判明できないとの由。

ケンポナシは平成13年発行の「長崎県植物版レッドリスト」では絶滅危惧IB類にランクされている。(絶滅危惧IB類とは、ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの)かつて岩屋山(長崎市北部)にかなり大きなケンポナシの老木が2本あったそうだが、枯死して今はないので、高橋会長は枯らさないようにと念をおされた。
余談だが、岩屋山のケンポナシについては、現在オランダの国立植物標本館にシーボルト自筆の「1827年3月29日岩屋山」(原文はラテン語)と書かれた標本の中にシキミ、モミ、イヌガヤなどと一緒にケンポナシが採集され残されている。
シーボルト記念館より送付された資料によると、遠目にはヨーロッパの野生のセイヨウナシにそっくりだが、この大きな高木の原産地はおそらくインドで、インドでは野生状態のものが見られる。日本ではすでに数百年も前から栽培されており、たぶん中国から移入されたものと思われる。

大きな葉は一年生で、斜形状の心形になり、その色合いや作りからするとクワの葉に似ている。小さな白っぽい花が6月になると現れ、分岐して八方に広がる集散花序につく。花が散ると、花序の枝が肥厚し、やがて肉厚になる。これは食べることができるが、甘くよい香りがして、イナゴマメの風味かまたは、ケンペル(出島商館医、1690年渡来)がいみじくも指摘したようにベルガモットの風味によく似ている。
薬用としても用いられ、喘息やそれ以外の肺疾患に他の植物と一緒に煎じて飲むように奨められている。さらに、日本の常用の飲み物である米から作られるビール(酒)に酔わないように飲んでおくと予防薬として大変評判よい。

○「注記」ラテン文の記載。図解は川原慶賀で詳細をきわめている。ケンポナシによほど興味を抱いたに違いない。酒酔いの防止にケンポナシが用いられていたことが記されているが、ケンポナシには酒の味そのものを変えてしまう効果もあるらしい。
佐賀県伊万里市のケンポナシ(幹周り2.43m、樹高25m)は、佐賀県の名木・古木に指定されている。長崎市でも間ノ瀬のケンポナシも長崎市の文化財に指定していただき、大事に保護されることを念願している。
○「補則」日本一のケンポナシは幹周り3.6m、樹高18m、推定樹齢200年 青森県弘前市下銀町 弘前公園内 藩政時代から有用樹木として大切にされてきたらしい。

〈参考資料〉
・シーボルトが出版した「日本植物誌」の解説文を紹介した本 講談社
・シーボルト「フロラヤポニカ」解説 講談社
・シーボルト旧蔵日本植物資料展 シーボルト記念館
・長崎の薬草 高橋貞夫著 長崎県生物学会
(長崎市住・植物学研究家)

白山大権現のモチノキ  長崎市田中町

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白山大権現のモチノキ  長崎市田中町

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”の2008年2月発行第17号が、東長崎に残る巨木にスポットをあてて紹介していた。最後の3本目の紹介となる田中町白山大権現のモチノキの大木。
田中町交差点から国道34号線を矢上の方へ向かう。マルキョウを過ぎてホンダカーズ手前で、右手に焼鳥「勝」や「田中自動車板金」の看板がある細い車道へ入る。奥には広い駐車場があり、上は長島宅。この庭上の高台にモチノキの大木が見える。東長崎スイミングクラブの裏手となる。白山大権現の根元には左右路地を伝う。

東長崎タウン情報”すまいる東長崎 ひがなが瓦(かわら)ばん”第17号によるモチノキの説明は次のとおり。
もちの木  白山大権現

戦時中、爆風で一瞬のうちに葉っぱが全部散ったというもちの木。今でもなお、大きくそびえる姿は自然の偉大さを感じます。

なお、東長崎地区には、今回この”瓦ばん”情報により紹介したこれまでの3本の木の外に、次のような大木がある。すでにブログの先項において紹介済みのため参照。
矢上町  長崎自動車学校のクロガネモチ
https://misakimichi.com/archives/469
現川町  山の神神社のアラカシ
https://misakimichi.com/archives/464
中里町  長崎街道のフジ
https://misakimichi.com/archives/432
平間町  滝の観音の伏樹(イチイガシ?)
https://misakimichi.com/archives/403
松原町  赤瀬邸庭園の日本一のラカンマキ
https://misakimichi.com/archives/288
矢上町  矢上八幡神社の大クス
https://misakimichi.com/archives/283
平間町  薬師院跡のケンポナシ
https://misakimichi.com/archives/624
(この木は入力し忘れに気付き、本日記事にした)