鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

鈴田峠から風観岳の藩境石塚  諌早市・大村市

鈴田峠は、諌早と大村の境。鈴田峠から風観岳に残る藩境石塚の見事さは、話に聞き、HPにより見ていたので訪ねてみた。鈴田峠から歩くつもりだったが、HPに山道の地図がなく、峠駐車場に何の案内もない。
地元の人も知らず、峠手前「トンネル上」バス停の鈴田峠甘酒まんじゅう屋のところから車道が上がっていると聞いて、バイクで登った。
私は国道34号線から行った。どうもHPは、昔の長崎街道の鈴田峠から話が進んでいるようなのに、今となって気付いた。

途中の集落に石祠があり、au無線塔の先に山道の案内があったが、そのまま頂上近くまで走った。車だと5分位。この一帯の尾根に藩境石塚があった。最大の三角塚は、一辺の長さ4mほどある。まっすぐ歩いて行くとすぐ山頂。
巨石の広場に、「従是東佐嘉領」の文字を削って、転用された「遥拝所」の石柱があった。建立の刻は「明治卅年四月三日 本高来郡破籠井村 総代柿本覚六」か。

あと1つの石碑は「明治三十七、八年日露戦役出征軍人凱旋紀念櫻」。が、桜はなかった。三角点が見あたらず、墓石を間違って書いた思われるHPもあった。山頂から先へ少し下ると、風観さんの石祠があった。下の集落のと同じようだ。後は何もなく引き返した。
HP「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」の説明は次のとおり。これを参考に行ったのだが、「硯石」を見てなく、また同氏のには、別に近くの大村市今村川畔「藩境石(今村川)」があることを知らず、調べそこねた。再度、出かけねばならない。
最後の写真は、国道34号線の諌早市真崎町側から見た風観岳。

HP 「藩境石塚(鈴田峠〜風観岳)」

長崎街道の鈴田峠から、大村に向かって右手に入ると、風観岳に上がれる。(01/05/2002)
昔から、大村と諫早の境界である、風観岳(236.7m)。鈴田峠から、風観岳の遥拝所の間で、藩政時代の、国境標識である、藩境石塚を見ることが出来る。
この石が、硯石で、大村諫早間の鈴田峠の目印。この石から、右手に上って行くと、風観岳の山頂に上がれる。途中に分かれ道が、二箇所ほどあるが、上に向かっていけば大丈夫です。
この塚は、三角塚と言い、藩境石塚の一種だが、境界が、「く」の字に折れたところに築かれたもの。風観岳の山頂に行く途中に、遺された、この石塚は、確認された中では、最大のものです。

四角く積まれた、この形の藩境石塚は、角塚といい、諫早(佐賀)藩が築いたものです。また、丸く積まれたものは、大村藩が築いたもので、丸塚と呼ばれます。
藩境石塚は、約30m間隔で、設置されていて、享保10(1725)年に築かれたそうです。
この藩境石塚は、全部で三百数十基が築かれたそうですが、この諫早西部の丘陵地帯に、60基ほどが確認されています。
しかしながら、その多くは戦後の開発や開拓で消失しています。せめて、現在残っているものだけでも、文献資料を伴う、大切な歴史遺産として、遺していきたいですね。

風観岳山頂の東端にある、東方遥拝所の文字が刻まれた石柱があります。この石柱は、もともと、街道の硯石の傍にあって、「従是東佐賀領」と書かれていた、石柱だったそうですが、その文字が削られ、明治時代に、現在の場所に、移されたものです。藩境石も、こんなリサイクルをされるとは、思ってなかったでしょう。
風観岳の山頂は、日露戦争の出征兵士凱旋祈念碑などもあり、上の石柱と併せて、軍国主義時代の遺物になっています。
現地の状況からすれば、昔は、東側に諫早湾や、多良岳連峰を望む、絶景の地だったようですが、現在は、杉の木立に隠れて、遠景を楽しむことは出来ません。