諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

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諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

平成17年春、長崎市の大久保山から戸町岳に残る大村藩と佐賀藩の藩境石塚を、私たちが調査した。結果は、研究レポート第2集やこのブログ先項に載せている。
この時、最近調査された近郊の藩境塚で、「森山町郷土誌」から諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚の例を、概略で次のとおり紹介していた。

(資料4) 森山町郷土誌 光富 博氏稿「諫早史談会 森山探訪資料」 平成16年  185〜188頁
(3)諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚
藩境に石で築かれた御境塚が森山町・愛野町合同調査(註1)により、諫早領唐比村と島原領愛津村の藩境に存在することが確認された。合同調査によると御境塚は日吉神社の鳥居わきの山中に南東の方向へ五七五mに渡って分布している。諫早領の御境塚は円形で十八基、島原藩の塚は四角形で十三基、合計三十一基の御境塚が残されている。この外に潰れた四角形の御境塚ニ基が残っている。
この御境塚はいつ築かれたのか不明であるが、安永八年(1879)、双方の境に諫早領と島原領より御境塚ニヶ所を新規に築き、道の終点に双方より石を一つ宛埋めて中心の目印とした。この塚ニヶ所の上に杉壱本宛植えて双方の境目とした。(註2)
この御境塚に関係する記事が『日記』(註3)の安政四年(1857)六月十一日の条にみえる。この記事を読み下しに直して次に掲げておく。(略)
註(1)平成十五年四月九日、「藩境石塚」について、森山町教育委員会,森山町郷土誌編纂歴史部会及び愛野町教育委員会、愛野町郷土誌学習会による合同調査を実施した。
(2)『日記』安永八年九月ニ十一日の条。(諫早市立諫早図書館蔵)
(3)『日記』安政四年丁巳五月ヨリ七月迄。(諫早市立諫早図書館蔵)

ここの藩境石塚は、一度は見ておきたかった。思い立って平成20年2月23日、愛野町の現地を訪ねた。国道251号線唐比交差点から愛野の方へ左折し、ほどなく行くと小原バス停がある。右前方の小山に日吉神社があり、山王自然公園として整備されていた。巨石が多いのには驚いた。神体も石である。頂上広場に展望台があった。

藩境石塚は、ここにはない。公園入口の鳥居のところからすぐ右方へ分岐する広い車道があり、行くと「NER PLUS ナイロン(株)」の正門でつき当たり。この会社の敷地外周の山中に藩境石塚が残る。公園には、入口にも何の案内図や藩境石塚の道標はない。場所を探すのに苦労した。諌早市で何とかしてほしい。
現地の「藩境石塚」説明板は次のとおり。このあたりで確認されている13基の石塚が、連続して見られる。町の指定文化財。史跡石柱があった。

藩 境 石 塚     愛野町乙字山王2番18

島原藩と諫早藩の境の印として積まれた石塚です。古い記録によると、南北一・五キロに四十二ヵ所となっていますが、今は三十一ヵ所現存しています。
島原藩は、一辺二メートルの□形で十八ヵ所、諫早藩は、一辺二・二メートルの○形で十三ヵ所確認されています。
石積みの高さは、六十〜七十センチメートル、一個の雑石の長さは三十センチメートル前後です。塚間の距離はまちまちで、同間隔ではありません。
このような藩境石塚は、諫早藩と大村藩の藩境である鈴田峠近くの風観岳の山中にもわずかに残っています。
この石塚は、島原藩・有馬晴信の頃、諫早藩・初代龍造寺家晴が諫早に入部後、約四百余年前の天正年間に積まれたものと考えられています。
平成十七年二月一日   愛野町教育委員会