陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」。十人町から蚊焼間の「その一」は、前の記事とした。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行30〜31頁ですでに紹介済み。写真は、三和行政センター前広場へ移設されている「みさき道の道塚」、蚊焼古茶屋坂の「みさき道入口看板」、みさき観音の「脇岬観音寺本堂」。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年  35〜36頁

私の所属する、あゆみハイキング・クラブは御崎街道歩きの二回目として、蚊焼から脇岬の観音寺までの三里の道を、平成十一年十二月五日に歩きました。私は、街道歩きが自分の天職と公言しているY氏と三回に渉り、調査のため御崎道を歩きました。Y氏は九州の各街道を全部歩いた後、東京の日本橋までを各地の名所、旧跡を訪ねながら歩く事を夢みています。
長崎から脇岬までの街道は、何時の頃からあったのかは、はっきりしていません。それに、時代と共に道筋も変わっていることでしょう。長崎談叢第十九輯『維新前後に於ける長崎の学生生活』関寛斎の日記、司馬江漢の『御崎参詣の記』、および、原田博二氏の『観音信仰と御崎街道』を参考として御崎街道を歩くことになりました。

第一回目は、Y氏と蚊焼より歩きはじめ、旧茶屋跡から、秋葉山の稜線を歩きました。この山中には、現在道塚は一本も残っていません。二百五十四メートルの頂上近くに郷路八幡神社が祀られていて、この神社の近くに平家の残党がこの地で果てたと伝えられ、近くには墓石らしき石塚が残っています。今は雑木に被われて展望はありませんが、江戸時代は雑木が少なかった様で、寛斎の記述には「此の処東西狭くして直に左右を見る。東は天草、島原あり、遥かに其の中間より肥後を見る」と記してあり、私達も木の葉の間から遠く五島列島を見ることが出来ました。この郷路八幡の近くに、ビックーサンと呼ばれている日蓮宗の尼僧の墓が一基あり、「妙道尼信女」「文政三年旧六月廿三日」と刻されています。  

これより下ると、以下宿との別れ道に「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」「文政七年申十一月今魚町」と刻した道塚があり、これより十分進むと川原への分かれ道があり、ここに二本の道塚があります。奥の道塚は「みさき道、今魚町、上川原道」とあり、手前の道塚は「右御崎道、左川原道」と刻してあり、この手前の道塚は墓石を利用した珍しい道塚です。
ここより御崎道は二つのコースに別れます。①二ツ岳、生目八幡、岬木場、長迫、殿隠山、堂山峠に行く道。②以下宿、高浜、古里、堂山峠へと行く道筋があります。しかし①の道筋はゴルフ場となり、通行禁止で、殿隠山から堂山峠に至る道は現在ヤブとなっており、道筋は失われています。

Y氏と一回目の調査の時、①のコースを調べたのですが、どうしても堂山峠に辿り着く事が出来ず、迷った末に遠見山に登りました。この山には時代は不明ですが、狼煙(のろし)場と遠見番所跡が残り、また先の戦時中の観測台跡が頂上近くに残っています。
Y氏と二度目の調査は秋葉山のヤブ払と徳道から以下宿、高浜、古里のコースを歩きました。以下宿に下る道筋に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があり、ほどなく毛首の延命水があり、「奉供延命水」「安政四丁巳仲秋吉祥日」「長崎今下町施主中尾民助高浜村」と刻されていて、この場所は駕籠立場であって、御崎詣りの人々の恰好の休み場であったことでしょう。高浜は浦迫が中心となる町で、山城跡に真宗の金徳寺があり、また深堀一族を祀っている浄土宗の正瑞寺があります。

御崎道は毛首から蔭平に進み海沿いの道を古里まで歩きます。今は県道となり車が激しく往来しています。古里は、昔あぐり高浜と呼ばれていたそうです。Y氏と堂山峠の登り道を見た時、これは並大抵のヤブではないと判断し一応この日は引き返しました。
三回目は古里から歩きだしました。Y氏の御両親は脇岬の出身で、現在も墓地は脇岬にあり、Y氏の話では「母は、大正五年脇岬で生まれ、十八の時、当時同村より長崎に出て働いていた父の元に嫁ぐため、堂山峠を歩いて長崎まで行きました。母は下駄を履いて、親類の者に花嫁道具を担いでもらって、大変難儀してこの堂山峠を越えた事を、死の直前まで話していました」とのことでした。関寛斎の日記にも「此峠道中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云うべからず、下りて直に観音寺あり」と記述されています。

私とY氏は、古里を出発する時、近くの商店に四人の老婦人が世間話をしておられたので、話の輪の中に入って、堂山峠から観音寺までの道筋を尋ねてみました。道筋はY氏の母上が話しておられたのとほぼ同じでした。その老婦人達の話によると堂山峠越の道は、昭和二十年代まではよく行商に行く道として利用していたとの事でしたが、最近は通る人もなく、大木が倒れ、ダンジクという竹がヤブとなって通れないとのことでした。
老婦人達との話の中で、こんな会話がありました。「おばさん達は、何んの行商にいったとね」「米ば担いで行ったと。脇岬には米んなかもんね」という返事でした。司馬江漢の日記にも「脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤二品あり」と記しています。

Y氏と私は意を決して、このヤブ道を切り開くことにしました。古里から堂山峠の手前までは意外と簡単に行けたのですが、これからが大変でした。たしかに道筋らしき敷石のある道があるのですが、倒れた木と竹をY氏と二人で山刃・ノコ・カマを使い分けて進むのですが、思う様に進まず、約七時間かけて峠から観音寺までの道を切り開きました。その時二人とも話す事もできぬほど疲労していました。二人とも「あした、仕事出来るやろか?」とキズだらけの手を見ながら帰路につきました。

(注) 「みさき道」のルート紹介や、歩いた道が正しかったかは別とし、なんとか脇岬観音寺までたどりついた陸門氏とY氏の、平成11年12月の貴重な踏査記録。
実は文中に、重要なことを書かれている。以下宿の道筋(高浜延命水手前)に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があったら13本目の道塚となる。

「みさき道本道」は、ゴルフ場道塚から確かに高浜へ下り、「関寛斎日記」とおりである。
道塚はゴルフ場造成の平成5年頃まで確かにあった。近くに畑を持つ高浜松尾栄氏の証言を得た。平成18年1月に3者で現地調査したが土砂に埋められたか、道塚はもうなかった。
この項は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/154