陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」。蚊焼から脇岬観音寺間の「その二」は、次の記事とする。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行28〜30頁ですでに紹介済み。写真は、十人町石段登り口の「みさき道(御崎道)の道塚」。「この道塚から始まり、かつては「みさき道」と刻まれていた」と、説明している。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年  45〜46頁

今、全国各地で旧街道を歩く会が盛んに行なわれています。私が所属している、あゆみハイキングクラブも、山行の一部として街道歩きを取り入れ長崎街道を歩いています。この会では、ただ歩くだけでなく名所旧跡を訪ね、見聞を広めながら歩く事を目的としています。今回は長崎から脇岬の観音寺までの七里の道のりを歩く事となり、第一回目は長崎から西彼三和町までの四里を歩きました。
同行二人の杖をつき、御崎の由緒ある観音寺の千手千眼観音に思いを馳せながら歩きはじめました。起点は十人町である。梅ヶ崎から十人町に上がる石段の付け根の所に、昔はユダヤ教会があったそうです。この教会は第一次世界大戦の際、敵国財産として没収され、その後は荒れるにまかせていたが昭和二十一年に取り壊されてしまいました。
この教会を建立したのはユダヤ人のゴンドレーキが主となり、世話人はレスナーやナフタリー・エスコーンと言うユダヤの人々だったそうです。ユダヤ人は寺院を建てる時には貴金属を祭壇の下に埋めるそうで、ユダヤ人が長崎を引き揚げる時、教会の飾りは全部取り外して持ち帰ったそうですが、祭壇下の貴金属は掘り出す事が出来なかったと言う話ですから、あるいは、今でもそのまま埋まっているかも知れません。

四海楼ガレージの坂道を登り右に曲がり、石段を登った所に長崎から御崎まで、今魚町(現魚の町)の人々が五十数本の道標を建てたのですが、第一番目の道標が、ここ十人町で「みさきみち」「今魚町」と刻まれているはずですが、現在はかんじんの文字は消えて、時の流れを感じます。このあたりは昔の面影が残り石段もゆるやかで、レンガ塀や格子づくりの家などが残りしっとりと落ち着いていました。
坂の途中に小説『お菊さん』を書いた、フランスの作家ピエール・ロチ寓居の地という碑が建っています。ロチは明治十八年長崎に約一ヵ月ほど滞在し、その間十八歳の長崎娘「おきく」と結婚した事になっています。この体験をもととして書いたのが小説『お菊さん』である。安政の開国により、この地区が外国人居留地となり、ここに居留地界の碑が建っています。
洋館群の急な坂を下ると大浦石橋に出ます。江戸時代ここまでが海でした。現在石橋は道路の下になっていますが、今もそのままの型で残っています。少し行くと出雲町の元遊郭街へと出ます。この遊郭街は明治二十五年に浪ノ平から移転して来たもので、現在は一軒のみ残り今にも倒壊しそうになっています。この遊郭街は丸山などと違い、客も一般庶民が多かったとの事、最盛期には十六軒の遊郭と三百五十人の娼妓がいたそうです。

この道を登り、二本松神社に出て少し行くと旧御崎道で唯一の街道らしい場所に出るのですが水道工事のため多くの石畳が破壊されています。なんとか元に修復してほしいものです。この道の中ほどに「みさきみち」の道標がひっそりと立っています。この道を下ると、長崎甚左衛門の一族である長崎氏の墓地があり、今も子孫の方により大切にまつられています。
戸町小学校から新小ヶ倉一丁目にさしかかると、「従是南佐嘉領」の碑があり、これから先は佐嘉藩深堀領となります。ダイヤランド入口手前に「力士墓」の碑があり、この碑の前の植木屋の庭の中に小さく破損した「みさきみち」の道標が人々に忘れさられながらひっそりと立っています。ダイヤランド団地の造成で古道に行く道がなくなり御崎道はここで途切れてしまいます。
今回は磯道町から土井首、毛井首を通り深堀の町へと出た。深堀の町は長崎近郊では唯一城下町的な姿を残している町です。由来記によれば、八百年前までは深堀を中心に戸町から野母崎まで散在する島々を含めて「戸八ヶ浦」と呼んでいました。建長七年(1255)に鎌倉幕府の命を受けた三浦能仲が地頭職として赴任し地名を「深堀」と改め、十七代仲光の代に、諫早西郷家より西郷純賢を養子とし鍋島に改姓し、佐嘉鍋島家の家臣となりました。

深堀を過ぎると、大籠町に至る。上の善長地区は文化年間(1804)に三重の樫山からキリスト教には寛大であったこの地に六家族が旅芸人の風を装い住みついたそうです。住みつく条件は八幡神社の毎月の祭礼及びお水方として領主用の水(お茶の水)汲みの役を果たす事でした。そして表向きは菩提寺の信徒でした。善長とはポルトガル語で異教徒から転化したものです。
この地区の墓地にはキリスト教様式の寝墓が多く、また氏神の新田神社は新田義興を祀っていますが、鳥居には隠し十字があり、奉献の奉の字が となり、神社家紋○一は石祠上部にある○大と○一とが合体されて○となり大神デウスを表していると思われ、石祠の屋根側面は大三角形で三位一体を表すそうです。石祠の屋根前面には蟹の彫塑があり、この地区の人々は蟹を食べないそうです。
この地区の上部が千二百年前頃の朝鮮式の山城で標高三百五十米の頂上付近には五条の空堀と、俵石と言われる柱状節理の円柱状の石群があります。江戸時代中期の画家、司馬江漢の「御崎紀行」には、「皆路山坂にして平地なし」と記されています。三和町に入ると「みさきみち」の道標二本が立っていました。