岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

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岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」。2001年初夏刊「長崎“街道周辺の史跡”」に収録。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行41〜43頁ですでに紹介済み。写真は、上戸町二本松山中の「みさき道」道塚と、ダイヤランド入口手前の「源右衛門茶屋」などの碑。

岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏作成
「長崎“街道周辺の史跡”」に収録   143〜150頁

江戸時代、長崎から長崎半島野母崎町の脇岬にある観音寺まで、みさき観音参りと言って長崎の善男善女が七里の山道を歩き通してお参りした。元気なものは夜明け前に出発して、夜遅く帰着する一日がかりの行程で、無理な人は泊まりがけで往復した。新婚夫婦も手を携えてお参りしたという。この風習は、現代のような交通網の発達しない昭和前期ころまでつづけれられたとのことである。この道程を「みさき道」と言って、今魚町の信者が天明四年(1784)50本の道塚を寄進したが、今日、確認できるのは8本ほどしか残っていない。
時代の進歩とともに交通道路が逐次建設されて、みさき道は寸断され、また山道も荒れていて昔のみさき道をたどることはできない。今日、わずかに残る道塚や道中の史跡など、まず長崎近郊のみさき道を辿りながら往時をしのんでみることにしょう。

◎十人町のみさき道塚
新地の湊公園さき、十人町にのぼる坂の角は太閤寿司で、すぐ右に上る階段が続いている。若干のぼった右側の町内掲示板と電柱の間に、高さ70cmの朽ちた石塚が立っている。町中にあり、いわゆる一番目の道塚と見てよいだろう。なんの説明板もないが大切に保存してほしいものである。
だらだら坂のとちゅうには、フランスの文豪ピェ—ルロチと日本娘お菊さんが一ヶ月あまり新婚生活を送った寓居跡もあり碑が立っている。
十人町の町名は江戸時代、港の遠見番十人の役宅があったところからきている。坂段をのぼりつめると、右側赤レンガ塀角に大きな居留地境の碑が残っている。旧幕時代、外国人はこの区域外に居住することは禁止されていた。
道路左側塀には記念碑がはめられていて、文久二年(1862)日本最初の英国聖公会堂(新教)がたてられた跡、鎮西高校(現、諌早市)の前身、鎮西学院発祥の地ということなどが記るされている。昔、みさき道として、この地は低い峠であった。
右に活水女子大の赤屋根校舎、赤レンガ塀の続く石畳の道、三角溝の側溝と異国情緒ただよう道を左の方へ進んで行く。車もときどき通るくらいで静かである。やがて道向いに南山手のグラバー園、大浦諏訪神社、妙行寺、国宝大浦天主堂そして下方に孔子廟と、長崎独特の風景が目に入ってくる。

◎オランダ坂
急な石畳の坂である。途中、左側にお寺の誠孝院、右側は再建された東山手洋館群で古写真などの資料が展示してある。往時のみさき道は、この坂を下ると入り江の迫った石橋電停あたりから急な坂道の続く出雲町へと上がって行った。

◎出雲町から二本松神社へ
出雲町から二本松神社へのぼる道は一帯が急斜面で住宅が密集し、狭い車道も曲がりくねっている。出雲天満宮わきをとおり、あえぎながら上がっていくと、やがて峠で小さな二本松神社が有る。ここには昔、長崎に入るための関所が設けられた戸町峠である。
右側のみちは鍋冠山(169m)に通じていて公園も設けられ、港夜景の美しいところである。長崎の南から東にかけて山裾を縦断する県道(小ヶ倉—田上線)が建設中で、上戸町からこの二本松までおよそ千mは既に完成していて目下(平成11年)田上までの延長工事が進行中である。

◎戸町のみさき道
鍋冠山裾一帯の市営アパート群を見ながら二本松神社より、ゆるやかな広い車道を200mくだると左側に入り込む道がある。このみちは350m先にある九州セルラー電話(株)上戸無線局へ通じている。避雷針をつけた大きな四本柱塔がすぐ目につく。
無線局の手前より左側の林に下る幅2m程の山道がある。この道が当時のままの「みさき道」である。なだらかな山道を3分ほど進んで行くと三叉路となり、道塚が立っている。林内にあるため摩滅することなく「みさ起みち」「今魚町」とはっきり刻まれている。真っすぐ進むと上戸町の墓地群へ、下って行くと弁慶岩橋のところへ出る。

◎弁慶岩橋あたり
三叉路で下り坂の山道を100mおりて行くと、ちょうど弁慶岩橋(1984年架)の袂に出る。谷に渡された橋である。ここよりさらに100m先の林に、守る人も居ないような荒廃した祠と弁慶岩がある。朽ちた立岩不動明王の赤鳥居、岩窟の祠、そして、数々の像が祭られている。
目につくのは、色あせた彩色陶製?の女神像である。おさげ髪で袴をつけ、靴を履いた姫の姿である。由来は知るすべもないが、空想すると500年の昔、戸町を放浪した草住御前がモデルかもしれない。黒石の老女像は話によるとここの創始者の由なるも、名前は分からない。
さらに奥の峻険な岩の坂段を60mほどのぼると堂々たる断崖窟(広さ4㎡)内に熊野権現大明神が祭られている。頂きは樹木がしげっていて弁慶岩の全容がつかめない。弁慶岩橋ができる前、小さな牛若丸岩もあったとか、近くの人の話である。下側に広い車道が通じていても、いま尚この地域は秘境の趣を呈している。ここの探訪を終えて、先程の三叉路に戻り真っすぐ進んで行く。

◎戸町長崎氏の墓
三叉路から林内の「みさき道」をあるいて七分で視界がひらけ斜面墓地帯にでる。下り坂途中に戸町長崎氏の墓がある。天正時代(1580年代)長崎甚左衛門の三番目の弟、重方(惣兵衛)は妻の実家戸町氏に迎えられ、戸町惣兵衛と称し戸町の地頭として戸町を支配したが、のち長崎に戻った。この墓は後継一族の墓で正面両側の墓碑(長崎丈左衛門、同夫人)戒名の中に勇猛という字がはいっているのも、なにか曰くありそうである。

◎宝 輪 寺
墓地をくだり、すぐ戸町バイパスの横断歩道をわたると、左角はガソリンスタンドでこの前の道を五分ほど歩いて行くと右うえに宝輪寺が見える。宝輪寺は小高い丘のうえにあり、この地は大昔、深堀氏の祖、三浦氏の居城、城の尾砦のあったところで今でも片方は険しい谷で、大昔の面影をのこしている。境内隅には霊をなぐさめるべく城の尾砦武士の墓碑がある。
宝輪寺は寛永18年(1641)修験僧、増慶が八幡町に大黒天を祭ったのが始まりで、その後、油屋町(清水寺下、いまの西田病院あたり)にうつり、昭和前期まで同地で、現在この地に再建されている。幕府直轄の寺としてこの寺は格式があったようで、元禄年間長崎奉行所の法螺貝安置所として不測の時とか、奉行巡検のさい用いられた。この法螺貝は本堂内の右側に安置されている。
本堂前面には後奈良天皇(在位1526−57)勅願所と書かれたおおきな木札もその格式をしめしている。境内に各人が幸を祈願するための「なで大黒」が据えられている。また長崎四国38番霊場でもある。

◎境界石標
宝輪寺を拝観後、さらに進んでいくと戸町中学校のところに出る。中学校を左に見て六分程まっすぐ進むと三叉路に出る。左側のゆるやかな下り坂は戸町バイパスに通じている。これまで歩いてきた道は旧道で、「みさき道」でもある。さらに少し歩いて行く途中の左側、原田邸(新小が倉1丁目1番)のかどに「従是南佐嘉領」の石標がたっている。長崎は江戸時代、天領であったが、この一帯から南は鍋島藩の所領であった。もう少しで戸町峠バイパスの峠である。

◎二力士墓
戸町バイパスはゆるやかな坂となり、峠わきに二力士の墓が移設されている。団地のダイヤランドは峠のさき左にはいったところである。二力士の説明碑がすえてあるのでそのまま掲載しょう。

◎みさき道塚と谷桜力士墓
二力士墓碑の道向かいは高比良造園で、園内上の土手隅に「みさき道塚」が残っている。文政六年(1823)今魚町と刻まれている。また上段土手の竹林内に円筒形の谷桜力士(俗名川向実松)の墓がある。明治25年10月15日建之と刻してある。みさき道沿いにあり、行き来する人も香華を手向けたことであろう。
長崎近郊のみさき道探訪もとりあえずここまでとして、さきの二力士説明碑にある源右衛門茶屋にも関係のある古い話を紹介して終わることにしよう。

◎虫追いの行事
昔8,9月頃、村中の子供青壮老年総出で虫追いと言う行事を行った。青赤の色紙で登旗をつくり、太鼓、鐘などを打ち鳴らして小ヶ倉海岸より源右衛門茶屋まで行列して、再び引き返した。そして海岸で為盛、糖盛二人の武士のワラ人形を立てて、射落とした。
伝説によると為盛、糖盛と言う二人の武士が敗戦して百姓家にかくれたが、百姓がその筋に密告し連行された。このとき武士は大いに怒って、吾らが死んだら虫になって村民に仇を打つであろう、と言い残した。このため後年、村民たちは二人の人形を作り、射落として虫追いの行事をするようになった。 「大正7年小ヶ倉村郷土誌、小ヶ倉尋常小学校」より

(注) 筆者は長崎市南公民館の歴史講座などを長年にわたり担当されているだけに、長崎市近郊の街道など9コースについて、実際に歩いたガイドブックとなっている。ただ、上戸町長崎氏の墓や宝輪寺下の道を「みさき道」のコースとするのには、疑問があろう。

前掲わたりどり氏HPなどと言い、多くの方の「みさき道」研究が、市中からなんとか小ヶ倉や土井首、深堀あたりまではたどりつくが、その先がホニャラ…で終る。
長崎街道や時津街道などに比べ、深堀道・為石からの長崎往還・御崎道・野母道・川原道など、肝心の地元街道の正しい検証が、これまでほとんど行われなかったと言える。本会の研究レポートやこのブログを参考とし、地元をはじめ多くの方が研究を進めてほしい。