みさき道(御崎道)とは  平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊から

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平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊から

御  崎  道

江戸時代、長崎市中と御崎(前野母崎町、現長崎市)の七里の間を結ぶ道。脇御崎村(前現同じ)の観音寺に至る信仰の道でもあり、その創建が古代にさかのぼるということから、路程の整備は後代に属するにせよ、古代から用いられた道と想定される。寛永15年(1638)野母崎(前現同じ)の日野山頂に遠見番所が設置されて異国船監視の要所として重視されるに伴い、遠見番ら交替役人の往還としていわば軍用路として整備されていったと考えられる。

正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外抜」菩提寺文書)、当道に相当する。道筋に多数の道塚が立つが、野母村の浜辺に元禄10年(1697)建立された道塚に「従是観音道」「山道十丁」と刻まれ、観音寺への道として道標が必要なほど往来が多かったらしい。

天明4年(1784)今魚町(現長崎市)町中が道塚50本を建立(観音寺境内石碑碑文)、高浜村(前野母崎町、現長崎市)内に文政7年(1824)長崎より五里、御崎より二里という同じく今魚町建立の道塚があり、同村中に「みさき道」「御崎道」「川原道」と刻まれる塚がある。ほかに前三和町(現長崎市)域では「みさき道」とあるもの、長崎市小ヶ倉地区では「御崎道」とする文政6年建立のものが残され、御崎道の称の定着ぶりがうかがえる。

天明8年司馬江漢が当道を用いて御崎観音を訪れている(「西遊日記」)。寛政6年(1794)の「西遊旅譚」では戸町・深堀(現長崎市)を経てこの参拝道を進み、「其路、山をめぐり、岩石を踏て行事、二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是(中略)。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所、比国無、日本の絶地なり」と記される。この戸町は「長崎名勝図絵」に長崎要路として記される六ヵ所の一つ東泊口にあたる。文久元年(1861)長崎医学伝習所生が当道を通っている(「関寛斎日記」長崎談叢)。

(注) 『長崎談叢19撰』(昭和12年発行)所収の林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」に引用された関寛斎「長崎在学日記」の紀行文は、彼の晩年の地、北海道足寄郡陸別町資料館にある日記と字句が一部相違していることが判明し、日記の原文写しを、研究レポート”江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルート”第1集・第2集に収録している。