「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか。「女の坂」の伝承とは

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「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか。「女の坂」の伝承とは

A 「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか

蚊焼への街道は今の有海を行く車道でない。これは赤土の三叉路に建つ農道竣工記念碑に昭和11年7月とあり、後でできた道である。古地図をよく見ると同じようなルートを取り、街道は実はこの車道の40〜50m位上を行っていた。
その道は「おんなの坂」また「おなごの坂」と呼ばれる。深堀藩の文箱を持った注進侍が前を遮った身重の女を切り捨てた伝承と女を弔う地蔵があるらしい。森氏の話とつじつまが合い、菩提寺右の尾根道を一の鳥居の方へ行き手前の教会墓地から右に山道に入ってみた。
農道ができたため長年歩かれてなく、地蔵先はひどい道だった。5回ほど通ってルートを探し道を整備した。この道は大籠町迎川橋の善長教会へ上る車道第1カーブ水場に出る。地蔵は近隣にない立派な作りで後背に石を抱え、お堂があったか瓦が残る。首なしとなっているのが惜しいが、これもこの地特有の歴史を感じさせる。教会墓地からすぐ奥の谷間にあるので、ぜひ一度見てほしい。

B 「女の坂」の伝承とは

長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店 昭和48年刊の412頁は次のとおり。

深堀村 女の坂(地蔵堂)

深堀村と隣村蚊焼村とを繋ぐ一條のだんだら坂路がある。この山路を約八丁程登れば更に一つの坂にさしかゝる。これが即ち女の坂だ。路の左手の小藪の中に古い地蔵尊が見られる。何時頃から女の坂と呼び、何時頃からこの地蔵尊を安置したものか詳かでないが、然おほよその見當は想像される。

古老の言傳へでは、幕政時代に當領主の命を受けて注進(使者)が文箱を携えて此の坂路を往来し、急を要する時もし途中を妨げる者は切り棄て御免を許されてゐたのである。或夜急ぎの注進が此の坂にさしかゝつた時、隅々妊娠の身重を横たへて路側に休憩してゐる一婦女に逢ふた。注進と知るや、あやしい者ではございません…と言葉も終らぬに、エイじやまするなとばかり一刀の下に斬り棄てた。

其の後注進を始め人々が夜路にこの坂にさしかゝると、さもうらめしそうな姿態の女が現れ通行人に呼びかけるやうになった。女の亡霊!女の坂!口から口へと傳はる噂、いつのまにか在所にひろがった。領主の御聲がゝりで同志相寄り此所に地蔵尊を迎え女の霊をなぐさめたのは其後まもないことだった。彼女の姿は現はれぬようになった。この傳説を知る者は夜分の通行には今も尚気味はよくないと言傳へている。

(注) 「女の坂」(おんなのさか・おなごのさか)は、深堀菩提寺右の八幡社一の鳥居の尾根道を行き、途中の教会墓地から右の分岐へ入る。ここから320m(深堀陣屋から913m)行った植林の切れた谷奥に立派な首なし地蔵がある。廃仏毀釈と思ったが、この資料にその記述はない。
後背の石がある珍しい地蔵で、お堂は壊れたか、瓦や燈籠石が谷筋に散乱している。この道の先にも「三界万霊」地蔵があり、大籠町迎川橋の善長車道登り口の第一カーブの水場に出る。

文久元年「深堀郷図」(長崎歴史文化博物館蔵)に地蔵堂がこの場所に描かれており、それ以前の安置と断定してよい。古地図が史料となる。
私は深堀の歴史を良く知る深堀5丁目有海の森節男氏から、この道は深堀経由の「みさき道」であり、深堀と大籠の集落を結ぶ。通学路でもあったと教えてもらっていた。
村岡豊氏HP「長崎県の坂」も、「女の坂」を訪ね「みさき道」?と記していた。