深堀の町中を道はどう通ったか。「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

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深堀の町中を道はどう通ったか。「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

A 深堀の町中を道はどう通ったか

十八銀行深堀支店前の割烹「たなか」から道は石段を下りバイパスのガード下に行く。ここが深堀水軍の根拠港御船手である。戸泊にかけていかにも構築した港らしく見事な石組みがある。ナフコの道もここにある岩河の地蔵へ出たようである。戸泊に地蔵が多い。

深堀の町中を道はどう通ったか。町中の道もなるべく正確にしたい。長崎市深堀支所に明治18年深町要氏によって編さんされた地番入りの古地図が書庫に保管されている。これが森氏が言われた地図であった。街道と考えられる道が赤線で太く塗られ、それが今も町中を通る車道とおりであった。深堀の町中はあまり変わってない。

関寛斎は小港に出て「戸数百戸許」と記している。明治18年「西彼杵郡村誌」の深堀村の戸数は社寺を入れて680戸。少なすぎるのでこれは「戸、数百戸許」の意味だろう。長崎から深堀まで三里。一行は12時前に深堀に着いて、鯛をあつらえ例の烏賊も煮て昼食とした。

B 「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

深堀鍋島氏は佐賀藩家臣で大配分格。諫早氏・神代鍋島氏の二領も深堀と同じ佐賀藩である。文久元年当時は、最後の深堀藩主10代(深堀家では29代)茂精(しげきよ)の時代。知行六千石といわれる(平幸治著「肥前国深堀の歴史」)
居宅の陣屋跡は、現深堀町5丁目深堀カトリック教会の上手にある。