八幡山峠はどこか。平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

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八幡山峠はどこか。平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

A 八幡山峠はどこか

深堀城山に八幡神社が祀られており、八幡山は城山のことである。ただ「峠」となるとどこをいうか。文献はなく今もって断定はできない。最初は一の鳥居をそのまま登り善長あたりを考えていた。しかし、これは登りすぎである。「女の坂」が街道となると、大籠町新田神社しか考えられない。
関寛斎日記には深堀から二十丁の距離とある。実測では菩提寺から新田神社は2091m。このあたりは村役場・学校分校が昔はあり、今も稲荷神社・六地蔵堂がある。新田神社脇は道路でだいぶん切り削られているが、尾根のちょっとしたピークで眺望がよい。そして字名も「丸尾」という。赤土からの道に続き城山へ登山道も上る。峠の形態が考えられるのである。
さらにここから蚊焼峠まで三十丁と日記は記している。実測でちょうど3026mあった。平山台上のタンク地点は帰路の「長崎道分れ」であって、「八幡山峠」となるとこの新田神社の地点しか考えられない。

B 竪に赤白青の旗號の黒船は、どこの国の船でどの地点で見たか

竪(たて)に赤白青の三色旗號とあり、フランスの黒船と思われる。横ならオランダである。安政6年(1859)、幕府は長崎・神奈川・函館を開港。アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダとの貿易を許可しており、長崎は鎖国の特権を失った。この当時、フランスの船はすでに来航していたのである。
黒船を見た地点は、深堀を午後発足して「二十丁許にして八幡山峠に上がり中程にて黒船を見る」とあり、そして峠道の暑さを説明し、後「三十丁計にして蚊焼峠の入口の茶屋に至」ったとある。中程とは、八幡山峠の手前か、その先の蚊焼茶屋までの間か。どちらとも取れるが、素直に解釈すると、八幡山峠(大籠新田神社)までの中間地点。前の地蔵を過ぎ二つほど尾根を回った所、赤土三叉路に建つ農道竣工記念碑の上の尾根あたりで、長崎港口にいたフランスの黒船を見たのではないだろうか。今は木立に覆われ展望はきかない。
蚊焼茶屋の中間地点とすると、晴海台団地の上あたり。ここは海の景色が良く夕日がきれいである。

C 平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

ここは帰路でまた説明するが、関寛斎の帰路で言う深堀と長崎道の分岐点となる重要な地点である。平山方面へ下る道もあり善長へ上る道もあり、「みさき道」と四叉路をなす。深堀藩の立場で考えれば竿浦・平山・布巻・為石の領内に行くのに、一番近くて使いやすい地点の道でなかったろうか。
今の平山台バス終点の三叉路とはどうやら違うようである。三叉路に道塚があったと言われる。確かにここも近道の小径があり、考えられないことはない。しかし、街道としての分岐でなかったようである。蚊焼桑原兄氏の記憶では、道塚があったのは三叉路でなく、このタンク地点のようである。そしてここは、明治地図の里道(大籠村路)である。