角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

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角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。角川書店刊”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年と、熊弘人著”長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部” 新波書房 平成5年の「古道町」。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102頁ですでに紹介済み。

角川書店 「日本地名大辞典 42長崎県」 昭和62年 867頁

ふるみちまち 古道町 〈長崎市〉
〔近代〕昭和24年〜現在の長崎市の町名。もとは長崎市土井首町の一部。町名のもとになった元来の小字名古道は、鹿尾川の渡り場から北へ字大道(現古道町)の坂を登り山一つ越えた小ヶ倉界の谷間を指し、数軒の農家と水田・畑があったが、現町域は広く鹿尾川以北の山林部を包括する。昭和35年の世帯数10・人口30。昔の古道の谷は南長崎ダイヤランドの造成で埋められた。なお、古道の字名は、江戸期に長崎から野母崎への御崎道が通っていたことによるが、土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという。

(注) 「みさき道」(御崎道)の土井首村コースを記しているが、「渡し場」の表現とも、関寛斎日記や文久元年同村地図などと比べると、特に「字京太郎から背後の山を越え」た部分(現在の草住町杠葉病院分院に回る)は疑問がある。
詳しくは、「地名」等の解釈と特定において説明しているが、今後の考証を待ちたい。

熊弘人著 「長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部」 新波書房 平成5年

古道町(古道町) みさき道               342頁
長崎市十人町から野母崎町脇岬に至る行程七里(27.5キロ)の道をいう。
脇岬は、鎖国時代には中国から長崎に向う唐船の風待港であったことから、長崎の抜荷商人達はみさきの観音寺参りと称して密貿易の利を得るため、このみさき道を利用していた。現在、十人町や新小ヶ倉1丁目に当時の標柱が残っている。
なお、土井首村内のみさき道のコースは、字古道から字大道(磯道町)を降りて鹿尾川の渡し場を渡り、字京太郎から背後の山を越えて草住の谷沿いを南下していたといわれている。

(注) 上記資料などをそのまま引用している。「抜け荷」や「土井首村のコース」については疑問がある。鹿尾川は「渡し場」でなく「渡り場」か。飛び石で渡った。

この項は、本ブログの次の記事を参照。写真が大山祗神社鳥居前、長崎大水害で改修された鹿尾川の川底に残る飛び石跡? 一部は長崎市立土井首中学校の前庭石となっている。
地図は文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」小ヶ倉・土井首村部分(長崎歴史文化博物館蔵)。
平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊 「御崎道」
https://misakimichi.com/archives/29
「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か
https://misakimichi.com/archives/365
大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは
https://misakimichi.com/archives/388