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江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年

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江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。江上忍氏県議会だより掲載記事「みさき道」平成15年〜平成17年。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行153〜154頁ですでに紹介済み。

其の2の「観音参り」は三和町郷土誌850頁、為石の「オカンノン様参り」は852頁にある。これら近郊の行事で「山道を通った」という記述は重要であるが、どのコースを通ったまでは詳細がない。推定できるのは、明治18年「西彼杵郡村誌」にあった「脇岬村路」である。
今回の調査は、野母崎町関係もわからないことが多く協力を依頼した。江上先生もそのひとりである。やはり地元は別の視点があり、たいへん参考となった。川原方面から脇岬に至る半島東回りのコースも多く利用されたようである。川原で明治のその道塚まで見つかった。

しかし今回の調査は、関寛斎の歩いたルートを通し、文久元年のみさき道(御崎道)の本道がどこか、文献・街道図・道塚で考えなければならないので、ご了承をお願いしたい。
特に其の1において、みさき道の本道が「今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て」観音寺に至るとする点は疑問が多く、これまで指摘している。

江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15年〜平成17年

「みさき道 其の1」    第1号補足版 平成15年発行
長崎から御崎の観音様に通ずる山道は、「みさき道」と呼ばれています。天明八年(1788)長崎を訪れた江戸の画家司馬江漢の「西遊日記」に長崎の人に誘われて観音詣でをしたことが次のように書かれています。「十二日天気にて朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて爰より七里ノ路ナリ。(中略)皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右は五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山の上を通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。」
又寛政六年(1794)に刊行された「西遊旅譚」には、「(前略)向所比国無、日本の絶地なり。脇津人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。」とあります。
長崎の十人町からスタートとして、新戸町、小ヶ倉、深堀、蚊焼峠(秋葉山)、今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て観音寺に至る七里の道です。観音寺の上のお堂に上かる石段の右下に、このみさき道の道標五十本を寄付したことを示す石柱があり、「道塚五拾本、今魚町、天明四年」などと刻してあります。
十人町二丁目から右折して石段を昇って自治会掲示板そばに第一号があり、今は読めませんが、「みさき道」と書かれていたといいます。このほか上戸町山中や小が倉二丁目の旧道など六ヵ所が確認されています。高浜山中の自転車道には「長崎ヨリ五里御崎ヨリ二里」とあり、「文政七年申十二月今魚町」と読めます。嶮しい山中に重い道標を五十本も設置した「みさき道」は昔の人にどのように利用されていたのか。国道四九九号と重ね合わせて議会だよりの編集後記の標題とした次第です。(略)

「みさき道 其の2」    第2号 平成16年4月23日発行
前回の県議会だよりにみさき道のことを書きました。長崎から御崎の観音様に通ずる山道のことです。長崎の十人町から二本松、上戸町、新戸町を経て、いったんは鹿尾川に突きあたって磯道にくだり、土井首、深堀、大籠から晴海台と平山台の間を通り、国道499号の晴海台入口道路のちょっと栄上寄りの所に出ます。あとは秋葉山、ゴルフ場、殿隠山、遠見山、堂山と全て尾根道です。途中蚊焼から黒浜、以下宿を通って徳道で尾根道に合流するコースと徳道から高浜、古里を通って堂山峠に至るコースもあったようです。今でいうバイパスだったのでしょう。
寛永15年(1638)老中松平伊豆守が日野山(今の権現山展望公園)に遠見番所を設置して、遠見番十人が長崎から交代で勤務するようになって、みさき道は軍用道路としても重要になってきました。十人町という町名は、遠見番十人の役宅があったことから名づけられたものです。
寛政6年(1794)に刊行された江戸の画家司馬江漢の「西遊旅譚」に「長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。」とあります。最果ての地に50本もの道標を建て、京や江戸の文人墨客まで足を運んだ「みさき道」とはなんだったのでしょう。
三和町郷土誌の年中行事の欄に「脇岬参り」として、「元日の午前中、漁師の男衆はフンドシ裸姿の素足で、船名旗や大漁旗をたてた漁船で脇岬の観音様へ参詣する。脇岬の観音様は古くは肥御崎寺(ひのみさきてら)と記されて由緒のある名山であった。—中略—なお、女性は1月17日に観音様参りをする。」とあります。また為石では毎月17日「オカンノン様参り」をしたとの記録もあります。観音様の話はあとに譲り、みさき道の話を続けます。
なぜ山の上を通ったのかといえば、海岸は絶壁で通れないところが多かったからでしょう。市民病院や湊公園辺りは海で、浪の平や小曽根辺りも絶壁で戸町まで行くのも山越えでした。おかしなことに、「みさき道」を地元の人は知りません。「みさき道」は、長崎や深堀、三和町などの人たちが御崎の観音様にお詣りするための道で、地元の人が長崎に行くための道ではなかったのです。地元の人が長崎に行くには、高浜、岳路を通って蚊焼に出るか、木場、川原を通って為石に出る方が楽なのです。
文久元年の4月に、御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎は、尾根道から高浜に下り、古里、堂山コースを通ったようで、「下りて高浜に至る、此の処漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の処より三崎まで一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に観音堂あり。」と書いています。尾根道を通って堂山に下るのは易いが、堂山峠を登るのは古里側からも脇岬側からも難所だったのです。
三和町郷土誌には、18ページにわたって「みさき道」のことが詳しくし紹介されているのに、野母崎町の郷土誌にはなにひとつ載っていません。さきの関寛斎についても年表の中に「文久元年4月3日長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠—蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。」とあります。「みさき道」の文字はありません。

「これより観音道山道十丁 みさき道(其の3)」  第3号 平成17年4月28日発行
長崎から御崎の観音様へお詣りする人たちは、物見遊山を兼ねて尾根道を歩いたようです。この「みさき道」のほかに海路がありました。野母と脇岬を結ぶ国道脇に「従是観音道山道十丁」と書かれた石柱があります(「従是」は「これより」と読みます。)。野母の港からこの道標のところまでは、畑道や砂浜を通れますがそれから先は切り立った岩盤が海に突き出ており通れませんでした。仕方なく山道に入り、わずか1キロぐらいで海水浴場の近くに出ます。
この石柱には、「元禄十丁丑九月吉日願主敬建」とも書かれており、みさき道に今魚町によって建立された五十本の標柱とは、年代も百年ほど古く、今から三百年ほど前のものです。
長崎野母間の定期船は明治16年に三山汽船(本社時津港)により、一日二便が運航されていますが、それ以前にもなんらかの船便があったようです。長崎遊学中の医学生関寛斎は、文久元年(1861)4月3日みさき道を歩いて観音寺を訪れた翌日、野母に行き、「船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、」と記しています。
漂白の俳人山頭火も、昭和七年二月七日に観音寺を訪れていますが海路だったようです。その前に滞在した長崎の俳友宅は、大浦の酒屋さんで、酒好きの山頭火にとっては、どんなにありがたかったのではないでしょうか。「人のなさけが身にしみる 火鉢をなでる」という句を残しています。「まえにうしろに海の見える 草に寝そべる」は、脇岬の砂丘での句です。

写真は、脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十丁」の道塚。本ブログの次を参照。
https://misakimichi.com/archives/97

野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

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野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」平成14年の27〜29頁。野母崎町のうつりかわりをしらべよう「みさき道をももっとくわしくしらべよう」。野母崎町は旧町名。

みさき道をももっとくわしくしらべよう (29頁部分)                
きみたちは、脇岬にある観音寺を知っていますか。このお寺は、たいへん歴史のあるお寺で、長崎からたくさんの人がおまいりにきていました。
朝まだ暗いうちに長崎を出発し、今の戸町、深堀町、蚊焼町へと進むころには、日もすっかりのぼって、そのあたりのとうげで一休みしたそうです。天気のいい日には、伊王島や高島まで見わたせたそうです。
しかしそこからがたいへんで、秋葉山の頂上まで一気にきつい坂道を上ったそうです。そこからは、山の尾根を歩き、殿隠山、堂山峠、遠見山、観音寺へと歩きつづけました。観音寺でお昼ご飯を食べ、長崎にもどると、もう夜になってしまった、ということです。…

この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行155〜157頁ですでに紹介済み。
同資料は野母崎町の小学3,4年生の社会科学習の副読本だった。たまたま脇岬公民館にあって目にした。今回の調査による文献史料や道塚からすると、「みさき道」は基本的に、高浜に下り古里から堂山峠を越えて、観音寺に行くコースと思われる。
「野母道」でもあるので、高浜・古里を通らないと、地元には遠回りとなろう。

教材が根拠としているのは、同27、28頁にあるとおり「二人は町民センターで、とても古いむかしの地図を見つけました。このふしぎな地図について話をしていると、係の人が話をしてくれました。…また昔の人が通っていた「みさき道」がかかれています…」から続く。
古い地図とは、元禄14年(1701)「肥前全図」(長崎半島部分)。長崎歴史文化博物館蔵。この図は、正保4年(1647)「肥前一国絵図」とともに、昭和61年「野母崎町郷土誌」の巻頭頁にある。研究レポートでは1集5頁。

この図を後ろに再掲した。図中の陸部の赤細線が道を示している。黒太線は当時の彼杵郡と高来郡の郡界であろう。殿隠山、遠見山の尾根に、赤細線の街道の道は通っていない。「みさき道」自体まだ不明? 正保4年(1647)「肥前一国絵図」も参考のため。赤二重線は村界。
郡界の黒太線などを「みさき道」と見誤った考察を、野母崎町教育委員会がしたものと思われる。長崎市中から脇岬観音寺まで1日で往復するのも、特別に頑強な人しか考えられない。

「みさき道」がまだ教材となっているなら、県立高校生用の山川出版社刊「長崎県の歴史散歩」と同じく、記述は再考願えればと思う。

長崎市 広報ながさき掲載記事「みさき道」 平成17年3・4月号

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長崎市 広報ながさき掲載記事「みさき道」 平成17年3・4月号

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎市 広報ながさき掲載記事「みさき道」。平成17年3月号 ながさき自由研究所 其の五十七「みさき道」と、平成17年4月号 其の五十八「続・みさき道」。ズーム拡大。

この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行168〜169頁ですでに紹介済み。
同資料の「みさき道ルート図」。点線で示している道は、疑問が多い。土井首から深堀までは江川経由。深堀から大籠までは「女の坂」を通る。または平山経由。徳道里程道塚からは殿隠山・遠見山は通らない。高浜へ下り堂山峠を越す。

各所に残る12本の道塚や、長崎医学伝習所生「関 覚斎日記」など各史料・古地図類から、これが江戸時代盛んだった「みさき観音参り」の、一般的な正しい道と思われる。
それをはっきり説明したうえで、現在、歩ける道としてこのルート図を掲げてもらわないと、誤解を生みかねない。自由研究はかまわないが、「広報ながさき」などの記事とするなら、今後とも正しい調査研究と報道をお願いしたい。

新長崎市の史跡探訪Ⅰ「みさき道概略図」の問題点

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新長崎市の史跡探訪Ⅰ「みさき道概略図」の問題点

平成17および18年に外海・三和・伊王島・野母崎・香焼・高島および琴海の7町が長崎市に合併した。長崎伝習所「新長崎市の史跡探訪塾」が研究成果として、平成20年3月発行した報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」三和エリア10頁に「みさき道概略図」がある。

同解説は次のとおり。また、33頁まとめには「野母の観音寺への参道である「みさき道」は軍事、密輸の道ともいわれ、複数の道があるようで遠近、平阻にかかわりなく、当時は天領を行くか深堀領を通るかと選択しながら通ったのではないかと思ったりする」とある。

みさき道
みさき道は深堀道などとも呼ばれたが、野母崎町脇岬の観音寺に参詣する道として整備された。江戸時代は観音信仰が盛んで長崎の人達の信仰を集めていた。
コースは長崎から脇岬の観音寺までの7里(約28km)の距離で、大体1泊2日の行程であった。道の分岐点の要所には天明4年(1784)に長崎の今魚町が50本の道標を立てた。
その後立て替えられたものもあるが、現在は10本程が残り、当地域にも3本が現存している。
またこの道は野母権現山の遠見番所や狼煙台、港口にあった台場へ通じる重要な軍事道路でもあった。

この報告書を、きのう長崎市立図書館で初めて見た。平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点はすでに指摘している。  https://misakimichi.com/archives/1585
まったく同じような問題点を含み、この報告書もそのまま発行されている。「みさき道概略図」はどの道を説明しているのか意味がわからない。

「みさき道」でみんなが知りたいのは、観音信仰が盛んだった江戸時代に、長崎市中から一般町人が歩いた、道塚が残るふつうの正しいルートであろう。いろいろ史料・資料の手持ちがある。
少しは当会研究レポート「江戸期のみさき道」や本ブログを参考とし、現地を調査研究してほしい。  https://misakimichi.com/archives/3035
「みさき道」の道塚は、現在12本残り、三和地域に4本ある。「みさき道概略図」に対比して、検証の1資料として、明治34年測図国土地理院旧版地図(ズーム拡大)のみ掲げる。

道のない所に勝手に道を作られては困る。長崎学としながらこのような内容の解説書を、長崎歴史文化博物館や長崎市長崎伝習所が発行するのは、公費支出上でも問題があろう。「三和町郷土誌」382頁の地図もおかしい。
迷惑しているのは、さまざまな人に及んでいる。三和行政センターも地元だから、考えてほしい。  http://yamanosoyo.exblog.jp/d2010-02-24

故市川森一先生の小説「蝶々さん」に登場したみさき道

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故市川森一先生の小説「蝶々さん」に登場したみさき道

市川森一さんが生前に語っていたこと
産経新聞 12月10日(土)17時4分配信

(12月)10日に死去した脚本家の市川森一さんは、故郷の長崎を舞台にした自身の小説「蝶々(ちょうちょう)さん」のドラマ化の脚本を自ら手がけ、11月19、26日の2回にわたりNHK総合で放送された。放送前の11月11日には、東京・渋谷の同局で開かれた報道向け試写会に出席し「今日拝見して、こういう作品が生涯の遺作になれば幸運だなあと思ったりしました」と感慨を語っていた。
ドラマで主演を務めた宮崎あおいについて、市川さんは生前「原作を書いているときから、イメージに置いていた」としていた。
試写会での市川さんの発言は次の通り。

「この年になると、一本一本が遺作のようなつもりで、作品によっては、これが遺作じゃ嫌だなと思う物もありますが、今日拝見して、こういう作品が生涯の遺作になれば幸運だなあと思ったりしました。原作とか脚本という立場を離れて、明治の長崎の世界に浸りきらせていただきました。早く後編を見たいという衝動に駆られましたが、すべての皆さんに感謝します。あの世界をあれだけ完璧に作り上げられるのは、並大抵のことじゃなかったと思います」

死を予感されていたのか、以上は先生の突然な悲しい訃報である。肺がん。まだ70歳だった。
市川森一先生作の小説「蝶々さん」は、長崎新聞に連載された。「みさき道」が登場する。関係した部分は、次のとおり。
この項は、本ブログの次を参照。 https://misakimichi.com/archives/69

私も研究レポート「江戸期のみさき道」が縁となり、親交をいただいた。特に第53回「花影(八)」(2007年5月19日付)では、お蝶が「みさき道」を通って、実家の深堀村へ一時帰る。状景など尋ねられた。
十人町の石段が百三十一段あること、加能峠まで来て目の前には見慣れた深堀の城山(じょうやま)が見えることなどは、私たちが報告したことだったが、実際に歩かないでこれだけ「みさき道」を正確に描写される先生の筆力に感嘆した。
市川森一先生のご冥福を心からお祈りします。

第29回  遠 い 歌 声(十)   2006年11月18日付
十二月に入った最初の日曜日、お蝶は、田代先生から預かった新約聖書の本と、自分がユリに上げようと思っていた銀の平打ち簪(かんざし)を風呂敷に包んで蚊焼の岳路を訪ねて行った。
深堀の村はずれが大籠(おおごもり)だが、蚊焼は、そこから、みさき道を野母方面へ一里ほど下った村である。元気ざかりの女の子の脚でも一時間はかかった。そこからさらにかくれキリシタンの里である岳路に辿り着くまでに三十分を費した。

第35回  紅     燈(五)   2007年 1月13日付
数日後、お蝶は水月楼にきて初めての外出をした。行き先は、東山手十三番地の丘の上。どうしても、活水女学校の外観だけでも見ておきたいという、お蝶の嘆願をマツが渋々許しての外出だった。
マツにお供を命じられたお絹が道案内をしてくれた。二人は、寄合町の坂を下りきったところで、左に折れて、元の大徳寺への坂道を上がり、中華街である広馬場町へ下りて、そこから、十人町の長い石段の細道を上がって行く。みさき道という、七里先の野母半島の突端の観音寺まで続いている古道の出発点がこの十人町の石段だ。寄合町から二十分ほどの上がったり下ったりの行程だった。
石段のみさき道を上がり詰めた瞬間、初夏の風がお蝶の袂(たもと)の中まで吹きこんできて、汗ばんだ体を癒してくれた。
そこには、港を背景にした外国人居留地の洋風の風景が眩(まぶ)しく広がっていた。
二人が立つ丘の左手には、鎮西学館のレンガ造りの二階建て校舎があり、右手には、宝形造りの屋根の上に鐘塔をいただく宏壮(こうそう)な木造二階建ての洋館が建っていた。それが、活水女学校の校舎だった。
お蝶の足は吸い寄せられるようにそっちへ歩み寄り、鉄柵の向こうに広がる別天地に見とれた。

第53回  花     影(八)   2007年 5月19日付
みさき道とは、唐人屋敷の近くの十人町から、野母半島の突端の脇岬の観音寺まで延びている七里の古道をいう。深堀村はその途中にある。
十人町の百三十一の石段を上がりきると、活水女学校の校舎が現れた。活水の女学生になることを夢に描いてきたお蝶には、いつも身近に感じていた風景だったが、今日はその白亜の校舎が雪と共に溶けて消えてしまいそうに見える。お蝶は視線をそらして駆け出した。誠孝院の坂道を転がるように駆け下り、東山手と南山手にまたがる石橋を渡って、外国人居留地の丘を駆け抜け、戸町峠の二本松神社に辿り着いたところで、息が上がってようやく立ち止まった。
眼下には、湾口の島々が霞んで見えた。汗が引くと急に体中が冷え込んできたので、またすぐに歩き出す。そこからしばらくは、桧や雑木林が生い茂る山道を下って行く。お蝶の手荷物は弁当と水筒だけだが、懐剣と笛はしっかりと帯に差してきた。
お蝶の草鞋足は、寸時も立ち止まることなく鹿尾の尾根を登り、小ヶ倉村を見下ろす加能峠まで来て足を止めた。目の前には見慣れた深堀の城山(じょうやま)が見えてきたからだ。そこから江川河口まで下って深堀道に入り、ふたたび、鳥越という険しい坂の峠を越えた途端に、突然、懐かしい御船手の湊が広がった。
—着いた。
夜明け前の五時に水月楼を飛び出してから、四時間の徒歩で深堀に到着した。子供の頃から馴染んできた景色の中を足早で陣屋の方角に向かった。

江戸期の観音禅寺 (2)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (2) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。これは(1)からの続き。

(五) 江戸期の観音禅寺

さてこの寺と長崎の町人とを結びつけていたのは、観音信仰と徒歩旅行時代の行楽である。観音信仰そのものからすれば、江戸期に入る少し以前から著名になっていたようであるが、ここの観音詣は特に長崎の町と成立と関係深く、長崎の町の賑わいはこの寺の賑わいにも反映したと思われる。長崎から観音禅寺まではその距離が七里といわれ三十キロ弱である。徒歩旅行時代の参詣にちょうどよい距離だったようで、道筋は長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた。この観音寺詣にたどる道には、道塚が立っていたようで、これは寺の階段脇の石柱銘によって、天明四年(一七八四)長崎勝山町石工山下○○の寄進によることが知られる。「道塚五拾本」とある。
この天明期ころが最も観音寺詣が盛んだったのであろう。観音堂の再建、真鍮水器一対(長崎道賢)、観音寺縁起仮名木版(後興善町坂本庄五郎)、石門の建立、経蔵(唐船方日雇頭中)、水盤(深堀伊王島○○)、中太鼓などの寄進が集中している。時代が少し下るが、天保十五年(一八四四)の寄進になる銅製のカネの多くの寄進者名の中には丸山遊女らの名も見え、その信者の層の広さも感じられる。

江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。彼の『西遊日記』には次のように記し、木版本として出版された『西遊旅譚』では、観音禅寺を少し上方の遠見山近くからの俯瞰図の中に描き込んでいる。
「(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音(へ)皆々参ルとて、吾も行ンとし、爰より、七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎(おらんだ部屋付役)夫婦、外ニかき(鍵)やと云家の女房、亦壹人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ脱ヵ)うも能く見ユ。鍵(カキ)や夫婦ハば(はヵ)だし参リ。皆路山坂ニして平地なし。西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり、二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居ル。唐人下官(クリン)の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあがる。皆鼠色の木綿の着(キ)物、頭にはダツ帽をかむりたり。初メて唐人を見たり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦(衍ヵ)暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイ(粥)を喰す。芋至て甘し。白赤の二品(ヒン)アリ。」、(黒田源次・山鹿誠之助校訂『江漢西遊日記』より)

また寛政六年出版の『西遊旅譚』には、
「十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所阿り。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏(ふみ)て行事、二里半余(ヨ)、山乃頂(ウヘ)人家なし。右の方遥(ハルカ)に五島見(ミル)是ヨリ四十八里。左の方天草島(アマクサジマ)、又島原(シマハラ)、肥後の国見(ミエ)て、向所(ムカウトコロ)比国無(ナク)、日本乃絶地(ゼッチ)なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋(ヘンリュウキュウイモ)を食(ショク)とす。風土暖地にして雪不降(フラズ)。ザボン、橙其(ダイダイ)外奇草を見る。」
江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた。絵画家と関連して、観音堂の天井絵について触れておきたい。この有名な天井は、その落款に次のようにあることが知られている。
「長崎画史鑑賞家七十九翁、禁衣画師石崎融思敬写、同石崎融済謹写、補助石崎融吉敬写」
石崎融思は当時の唐絵目利の長老格であり、七十九才といえば彼の没年であり、弘化三年(一八四六)にあたり、二月に没している。この天井絵にはシーボルトの絵師であった慶賀の名に成るものもある。慶賀はこの時六十一才で、それより少し前の天保三年(一八四二)にはオランダ人のために国禁に触れるような図書を描いたとして、二回目の江戸、長崎の所払いを命じられている。石崎融思は慶賀の父、川原香山とも親しく慶賀の出版物に序文すら寄せていて、この不遇の出島出入の画家であった慶賀を引き立てている。この天井絵もまた、所払いの身であった慶賀を引き立てて仕事を与えたのかも知れない。

江戸時代のこの寺は、以上見てきたように長崎の人々の行楽と観音信仰によって支えられたようで、余り曹洞宗の禅寺としての姿はみえない。ただ明治に入ってからは長崎の文人墨客がここによく逗留しており、画冊の寄せ描きも残っているし、書道界に名の知れた川村驥山も、若いころかなり永いことこの寺に寄宿し、多数の書を残している。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)

江戸期の観音禅寺 (1)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (1) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。続きは(2)へ。

(五) 江戸期の観音禅寺

前年度と今年度の報告として紹介した、この寺の資料からも知られるように、この寺に現存する資料の中には、江戸期より前のこの寺の状態を知るうえでの直接的な資料は、観音堂に安置する千手観音像と縁起を除けば一点もない。しかも千手観音像単独での存在であることから、当初からこの寺にあったかどうかについて疑問をもつ人もあり、したがって江戸期より前のこの寺について知るうえでの資料としては、縁起と深堀家文書がほとんどであり、この点から考えられる事柄は先の(四)で述べた。
即ち、歴史上、「肥御崎寺」が存在したことは明確な事実であり、仁和寺の末寺であったことまではわかっている。平安末期から中世にかけて、この寺が存在していたとすれば、その伽藍があった場所には当然、石碑類が存在しているはずであるが、現在の境内にはそのように古い時代のものは一点も発見できない。したがって口伝でいわれるように、現在の境内は近世またはそれに近い時代になって新たに興されたのではないかと想像できる。
旧寺蹟の存在を知るためには、この石碑類の発見や古瓦の発見が重要であるが、その土地らしいといわれる、もっと奥の小高い場所へは、現在ではそこへ通じる山道の通行者がなく、立入りが不可能になっていて、今回の調査では現地の実見ができなかった。冬場の草枯れの時期に調査せねばならない。

観音堂そのものの実際の移建は前章で述べたように、観音信仰と同時に、村民の寺としての存在という関係からも、江戸期に入るより少し前に行われたと考えられるし、現存する観音堂の堂内の構成が、密教寺院の様式をそのままうけついでいて、この堂はこの寺が曹洞宗の禅院として再興される以前に、この地に建立されたと考えられる。そしてこの観音禅寺が実際に寺名を「観音禅寺」としたのは、江戸期に入り深堀の曹洞宗の菩提寺の末寺に組み入れられてからの名称であり、この野母一帯が佐賀鍋島領となってからのことであることを示している。
観音堂はこの寺が禅寺に変る以前に、再建されたことは縁起からも知られたし、観音信仰の力に守られていたものと考えられ、幕府の政策に関係して曹洞宗への転宗が行われても、この寺のそれ以前の信仰形態を完全に断ち切ることができなかったことが、この寺の観音堂を中心とした伽藍や、観音堂内に残る密教様式から判断できる。
ただ前述のように、この寺に現在存在する絵画資料をはじめとする寄進の様々や、境内の石碑物などは、江戸期に入っての寄進によるものであり、それもほとんどは長崎の町人によるものである。このことは実際にこの寺を江戸期に支えたものが、長崎の町人の観音信仰が主であったことを如実に物語っている。この寺の再興と現実の繁栄は、実に長崎の開港、江戸期を通じてのわが国唯一の開港地として栄えた町人によるところが大きかったのである。

先に引用したこの寺の最も古い縁起には裏書きがある。しかしこれは巻子装であるため、すれて消え、判読不明の部分もあるが、この縁起の表装が商取引のため長崎を訪れた、京都の萬屋徳兵衛の喜捨によることが記されている。これはこの表装が成った宝永年間頃には長崎への外来者さえも訪れるくらいに著名な寺となっていたのである。
また観音像の脇待の造法を見ると、長崎の黄檗寺院で見られる中国様式による木寄法を用いていて、中国人との何らかの関係も考えることができる。ただ中国人の直接のこの寺への参詣は許されていなかったようで、この寺にある丁運鵬筆の羅漢渡海図巻に対する、中国人十三人による讃文巻子への揮毫は、唐通事へこの寺の住職が依頼することによって成ったものである。唐通事のうちの数人は、かなりこの寺と密接な関係があったようで、来舶画人であった費漢源に学んだ楊利藤太はこの寺の寄進目録に名が見えるし、頻川氏によっては、十八羅漢図などが寄進されている。

この寺の所蔵品の中で注目すべきものの一つに、先に引いた丁雲鵬作の羅漢渡海図巻とその讃文巻子そろいの二巻がある。図巻の方は多分、天明年間に寄進されたものであろう。丁雲鵬は中国明代の画家で、白猫の仏画を善くしたといわれる。その羅漢図巻の真贋を問うこともあってか、観音禅寺第八代の泰田が唐通事に預け、中国より来舶していた中国人から画讃をうけたものである。これらの中国人の中には、費晴湖の名も見える。この当時、長崎に来舶した清人の名称と足蹟が知られる点でも興味深く、これらの画讃が記されたのは後に記す司馬江漢が長崎に来たころとも近い時期で、彼の西遊旅譚にも当時長崎に来ていた中国人名が知られ、その中にも費晴湖の名が見える。このころの長崎での中国人との交流の一端が知られる。
次に注目すべきものとして「常陽寿昌沙門東海拝画」の款をもつ達磨大師半身像がある。これは紙に太筆によって大描きした大作で力作である。沙門東海は長崎東海禅寺(不明)に住し、のちに水戸祗園寺の住職になった。常州那珂郡石神村鈴木直右衛門の男、画法は桜井山興に学び、花鳥人物に工、よく河豚魚を写す。世に東海の河豚と称されるという。享和二年(一八〇二)十月三日寂す。年八十三という。
東海禅寺は不明だが、あるいは中国人東海の墓のある長崎市内の春徳寺のことを指しているかもしれない。どのような経過でこの作品がこの寺に入ったか不明だが貴重な作品と思われる。

次ぎに石塔の中には豪潮の名を記した宝篋印塔がある。名を寛海律師といい、八万三千煩悩主人と号す。肥後州玉名郡に生れ、比叡山に学び、仏乗および儒教に長じ、かたわら書画をよくし、近世の名僧といわれる。一時玉名郡の寿福寺をついだが、八万四千の宝篋印塔の建立を発願して西日本から名古屋に渉って建立している。文化元年(一八〇四)には長崎に滞在したことが知られており、この際にこの脇岬もおとずれ建立の機会を持ったものと思われる。他に長崎市内の本河内やその他、また平戸最教寺にも同様の塔が存在している。この寺の塔も豪潮の足蹟を知る上で貴重な資料である。
また観音堂の左脇にせまっている斜面に、かなりの数の石仏が存在しており、またさらに上方にも数体散在しているが、その中には享保年銘をもったものがあり、これらは力強い彫を見せ、中国系仏像の流れによる表現をもっていて、長崎を中心に行われていた中国系の仏像彫刻の作例として貴重であろう。
その他に江戸期の仏器と明確にわかるものであり、近世の仏器関係、特に中国系の仏器の様式的基準を示すものとしての重要性もあると見られている。

以下、(2)に続く。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)

「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点

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「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点

長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」が平成19年11月発行されている。定価800円。
長崎街道・浦上街道・西山街道・島原街道・茂木街道・御崎道が取り上げられている。博物館の長崎歴史文化研究所と長崎学サポーターの方々による長崎学研究の本である。

「御崎道」とは「みさき道」。長崎市中から脇岬の観音寺まで七里(28km)。江戸時代から”みさきの観音”の参詣で賑わった歴史ある道。
苦労して調べられた研究に論をはさむのは心苦しく、なるべく差し控えていたが、長崎歴史文化博物館の本なので市販されている以上、読んだ方が誤った理解をされないとも限らない。
「御崎道」に関する研究の主な問題点をあげるので、今後の参考としていただきたい。

1 長崎歴史文化博物館が編集発行した「長崎学」のハンドブックである。当時の文献や資料にもとづいた信頼性のある、正確な調査と研究をお願いしたい。
2 江戸・明治・大正・昭和期と時代を混同されたルート図となっている。私たちが知りたいのは、江戸時代の参詣の道であろう。他の街道でも同じようなことが見られる。
3 明治以降できた県道・市道などを主な道としている。極端な例として竿浦町付近では、近年の「サイクリング道路」をそのまま街道と誤認されている。
4 地元を知る識者や古老の聴き取りを行うと、今でも街道の様子がおぼろげながらわかることがある。参考となる史料や図書が、地元に残っている場合がある。
5 文献や資料と照らし合わせ、現地を実際に歩いて踏査し、確認すべきではないか。現地踏査がおろそかになっている。大籠町ー晴海台団地間は地図が欠落。
6 当時の文献や資料の研究を、ほとんどなされていないように見受けられる。主な史料類を以下に掲げるので、参考としていただきたい。
7 「御崎道」研究の第1級史料である長崎医学伝習所生「関覚斎日記」の存在にまったくふれず、研究されていないのはいかがであろうか。
8 佐賀領各村地図・街道図・居留地地図などと国土地理院明治期旧版地図の調査研究と活用をお願いしたい。根拠のない推測の道では困る。
9 当時の長崎半島の地形をどれほど認識されているのだろうか。海岸部はほとんど後年の埋立て。道がなかった所は歩けない。赤道調査の必要がある。
10 川原・岬木場回りの「御崎道」の研究もお願いしたい。殿隠山・遠見山は通らず、直接、井上へ下って観音寺へ向かっているようである。
11 テレビ番組や新聞記事が安易な内容となってないだろうか。慎重な取材をしたうえで、正確な報道をお願いしたい。

「御崎道」に関する主な文献と資料

① 長崎医学伝習所生の関覚斎「長崎在学日記」      北海道陸別町関寛斎資料館所蔵
文久元年(1861)4月3日から4日にかけて仲間3人で脇岬観音寺へ詣でた日記
② 「肥前一国絵図」(正保4年)・肥前全図(元禄14年)  長崎歴史文化博物館所蔵
③ 佐賀藩南佐賀領各村地図 (安政・萬延・文久年間)        同   上
④ 庶務課史誌挂事務簿 「西彼杵郡村誌」 明治18年5月     同   上
⑤ 真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」          長崎市土井首地区公民館蔵書
⑥ 国土地理院旧版地図 (明治34年測図)
⑦ 長崎市市道(赤道)認定図
⑧ このほか、平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名大系43」2001年など、多数がある。

深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」

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深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」

当山卅四世 普山結制記念発行の資料から抜粋。寺の沿革によると、創建は建長7年(1255)。鎌倉幕府の御家人、当地領主三浦能仲によって建てられた。現在は曹洞宗の寺。歴代住職が長崎半島近郊の主な寺、観音寺(脇岬)・宝性寺(為石)・円福寺(香焼)・天福寺(樫山)・地蔵寺(蚊焼)・円通寺(伊王島)などを開山や復興した。
深堀鍋島家の菩提寺で同家の墓地や、赤穂浪士が討ち入りの参考としたとも伝えられる「長崎喧嘩騒動」の深堀義士墓碑などがある。

関寛斎と佐々木東洋の人物像  ブログ「長崎のおもしろい歴史」から

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関寛斎と佐々木東洋の人物像  ブログ「長崎のおもしろい歴史」から

次は、岩田祐作氏ブログ「長崎のおもしろい歴史」の中、「長崎に遊学した人たち」医学伝習所の項にあった関寛斎と佐々木東洋の人物像である。長嶺圭朔は載ってなかった。
「佐々木東洋」は、佐倉順天堂の同じ門下生で、長崎医学伝習所に関寛斎と一緒に学び、御崎観音参りに同行した仲間である。

この記事にあるとおり、「佐々木東洋」は明治15年、東京神田駿河台に杏雲堂病院を最初に開院した。この病院は順天堂病院と並ぶ民間の代表病院である。本年で創立125周年となった。今も続き、建物玄関前に彼の胸像があるから、画像を紹介しておく。
東洋の胸像は、以前は由緒ある記念塔の前にあったが、病院改築のため台座を変えてこのようになったようである。

なお、夏目漱石の明治41年「処女作追懐談」中に、「今も駿河台に病院を持っている佐々木博士の養父だという佐々木東洋だ。あの人は誰もが知っている変人だが、世間はあの人を必要としている。しかも己を曲げることなくして立派にやっていく」と、漱石の羨望をこめた文がある。

関   寛 斎    (1830〜1913)

農業吉井佐兵衛の長男として上総国山辺郡中村(千葉県東金市)に生まれ、後に山辺郡前之内村(東金市)の儒者関俊輔の養子となった。1848(嘉永1)年下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴き、佐藤泰然の順天堂で蘭方を修めた。さらに江戸に出て林?海・三宅艮斎のもとで研鑚を積んだ。嘉永5年帰郷して医業を開き、1856(安政3)年には下総国海上郡銚子村(銚子市)に移って医業に従事した。この頃、同地の醤油醸造業者浜口儀兵衛の知遇を受け、1860(万延1)年31歳のとき長崎に遊学した。1年余の滞留中にオランダ軍医ポンぺから西洋医学を学び、また開設草々の長崎養生所で臨床教育を受けた。1862(文久2)年帰郷したが、同年阿波国徳島藩主蜂須賀侯から藩医に迎えられて同国徳島城下(徳島市)に赴いた。1868(明治1)年戊辰戦争が勃発すると、徳島藩兵とともに従軍し、東征大総督から奥羽出張病院頭取を命じられて活躍した。戦後は徳島に帰って藩医学校や治療所の開設に尽力したが、不慮の事故に遭って徳島を去った。その後は新政府の海軍省に出仕し、また山梨県立病院長を務めた。明治6年再び徳島に帰って医業を開いた。以後30年間、この地で診療に従事し、関大明神と崇められたという。明治35年73歳のとき北海道の開拓を決意し、十勝郡斗満原野(北海道足寄郡陸別町)に入植した。二宮尊徳やトルストイに私淑し、以後10年間、幾多の困難を乗り越えて1500ヘクタールの牧場開拓と、理想の村づくりに取り組み、84歳で没した。

佐 々 木 東 洋  (1839〜1918)

代々医を業とする佐々木震沢の長男として江戸に生まれた。1856(安政3)年下総国印旛郡佐倉城下(千葉県佐倉市)に赴き、佐藤泰善・尚中の順天堂で蘭学を学んだ。さらに安政6年21歳のとき長崎に遊学し、オランダ軍医ポンぺについて西洋医学を修めた。1861(文久1)年江戸に帰り、チフス患者を治療して名を挙げた。翌文久2年幕府の西洋医学所教授助手を命じられ、1866(慶応2)年軍艦播竜の医官となった。1869(明治2)年大学大得業生となり、さらに大学南校(東京大学医学部の前身)の少助教・中助教・権大助教などを歴任して内科部長に進んだ。その間、ドイツ人の御雇医師ミュラーやホフマンらから親しく教えを受けた。明治8年医学校付属病院長となったが、翌明治9年退官して神田駿河台で医業を開いた。明治10年西南戦争が起こると、軍医を志願して一等軍医正に任命され、大阪の臨時陸軍病院に勤務した。翌明治11年東洋の発案で政府が神戸に脚気病院を設立すると、洋方の主任に選ばれて脚気の研究に専念した。明治13年同病院が廃止されると、翌明治14年東京・駿河台に杏雲堂医院を設立して脚気病院の患者を収容した。これ以後、本郷の順天堂医院とともに民間病院の代表として広く知られた。明治19年内務省中央衛生委員に選ばれ、明治23年東京医会が設立されると、会長に推されて開業医の医術向上に献身した。訳著書に「内科提綱」「診法要略」などがある。